大東亜共栄軒 1
Great east asia co-prosperity Restaurant 1

2006年4月30日
out-lounge 大塚・東京
荒井真一(日本)


「グローバリズム万歳」を見て 

2005年2月に初めて東京・大塚アウトラウンジで「グローバリズム万歳」を見た。

「グローバリズム万歳」は、脱脂粉乳、コカ・コーラ、小麦粉など、それがどのように日本に入って来たか、荒井氏の家族のエピソードとともに語られ、その後に、それをパンツ1枚になった荒井氏の身体にお客さんがそれらを塗り付けように頼まれる。

一つの素材が終わった後に、後ろの壁に逆立ちして、「グローバリズム万歳」と叫ぶ。
たとえば、脱脂粉乳はアメリカの家畜用だった期限切れのものが日本に入ってきて、学校給食で初めて飲んだなど、荒井氏の個人の体験談とそれをつちかった荒井氏の身体が重なりあうように、つくられている。

荒井氏の作品はまだ2度目なのだけれど、どれも軽くて、重たくて、笑えてシリアスで、いろんな顔を持っていると言える。

何度も使われる「グローバリズム万歳」という言葉が、荒井氏のパフォーマンスの時間軸の中で、言うたび、言うたびごとに、意味が重ねられ、その前に発せられた同じ言葉にたいして、自分のリアクションが違うのに自分自身びっくりする。30分弱という短い時間に、新聞で一度ぐらいは見たことがある程度の言葉が、一つの体験としての言葉の強さを表すようになり、今さっきまで、荒井氏の小麦粉やら、なんやらで、ぐちゃぐちゃになった身体を笑いとばすことができなくなっていた。

そして、現に荒井氏はパフォーマンスの中で小麦粉やコカコーラ、ケチャップなどでマッサージを頼むので体重もわずかとはいえ、重くなっていく。そして逆立ちして、必死に叫ぶ。
「グローバリズム万歳」と。
その声はグローバリズムを拒絶するようにも、祝っているようにも聞こえるが、最終的なあきらめのように、ここにしか道はないだろう、叫ぶしかないだろうとも聞こえてくる。

コカ・コーラにも、小麦粉にも、その時代、その時代で受け止められ方が違う。それらを私たちの身体は、その時代の研究や言説によって、そして、実質的にも吸収している。受け入れている。

荒井氏はかなり腹がでた、俗にいうオヤジ体型で、エロスというより、赤ん坊体型だ。でも、でかい。
つまり見ていた大人たちには大きな、やっかいな桃太郎的赤ん坊が生まれてきてしまった、という印象なのだ。

自分で「経験する」よりは、「少し浅い経験」が「鑑賞する」ことのように思った作品だった。

田上真知子(out-lounge)


「グローバリズム万歳 - 味の素」 荒井真一
2005年12月香港

約40年前、小学生の給食にはパンと脱脂粉乳が出ていた。
ぼくは家でパンや牛乳を食べたことはなかった。ご飯と味噌汁を食べていた。
給食のパンはアメリカで期限の切れた小麦粉で、脱脂粉乳はやはり期限切れの牛乳から作られていた。
それらはアメリカでは家畜のえさだった。
アメリカ政府はその小麦粉と脱脂粉乳を日本政府に売っていた。ぼくら小学生はパンと脱脂粉乳に親しんだ。
それで、ときどき母に「パンと牛乳を買ってよ」と頼んだが、母は「高くて買えないわ」と言った。


グローバリズム万歳!


ぼくはコカコーラも好きだった。しかし年に一、二回飲めるだけだった。
それは正月やお祭りに親戚が訪ねてきて、ぼくにお金をくれるときで、ぼくは走ってコカコーラを買いに行った。
両親は「おまえは何で、ああいう薬の味がして高価なものが好きなのだ?」と聞いた


そのころテレビコマーシャルでは毎日「デルモンテ、ケチャップ」の歌が流れていた。
ぼくらはケチャップが何かも知らずに、その歌を楽しげに歌っていた。
後で、ぼくはケチャップ好きになり、何でもケチャップをかけて食べた。
両親はケチャップを使おうとしなかった。


そのころうちの食卓には味の素が置いてあった。
父も母もぼくも何にでも味の素をかけていた。
味の素は特に子供を賢くすると、言われていた。


ぼくの故郷は田舎で40年前、家の周りは田んぼだけで、ガソリンスタンドくらいしかなかった。
しかし、今はコンビニ、ファミレス、ケンタッキー、マクドナルドばかりで、田んぼはなくなってしまった。


そして今や食卓に味の素を置いてある家はほとんどない。
しかし、外で買った食べ物にはすでに味の素が使われている。

2002年8月8日に死んだ父は晩年ケンタッキーフライドチキンが好きだった。
彼は大好きな日本酒といっしょにそれを食べていた。
日本酒の肴にケンタッキー。

母は故郷に一人で暮らしている。
母は、ときどきご飯を作るのが面倒になって、晩飯にパンと牛乳をコンビにで買ってくるとぼくに話した

グローバリズム万歳!


荒井真一
"グローバリズム万歳−味の素"

Happy Japan! について 荒井真一

*以下の文章は中国の美術雑誌月刊『新潮--NEXT WAVE』の求めに応じて書いたものです。
2001年に執筆されたものです。

私(42歳)は8時30分に起き、8時50分に家(60000円/月=6m x 8m、電話代5000円/月、光熱水費10000円/月、1元=15円、100円=6.7元)を出る。自転車で10分、駅前の駐輪場(2500円/月)に とめる。切符(400円)を買い、中央線快速で中野に向かう。ラッシュアワーは過ぎているとはいえ、新聞を広げて読むことができないくらい混雑している。 20分して中野で地下鉄東西線に乗り換える。地下鉄は始発なので座ることができる。20分して今日の職場である出版社に着く。コンピュータ雑誌の誤字脱 字、内容をチェックする(20000円/日)。昼は近くの定食屋で刺身定食(800円)、煙草(250円)とお茶(120円)を買う。6時に仕事が終わ る。事務所に携帯電話をする(5000円/月)。明日は仕事がない。本屋で少し高いが前から欲しかった「コンセプチュアル・アート」(4400円)を買 う。葡萄舎という馴染みの飲み屋に行く。ワイン(2400円/ボトル)をとる。仕事上の不満、世間のパフォーマンスアートへの不理解を愚痴りながら泥酔す る。12時半、5000円を払い終電(450円)で1時間かけて帰る。終電は私のような酔っぱらいがいっぱいだ。当然座ることはできない。

私はアーティストだと言いながら、実は普通のサラリーマンのように満員電車に押し込まれて仕事に出かけ、金を得ているのだ。ただ、彼らと違うのは月に5日から20日と働く日数が不安定であり、それを自分自身でコントロールできない点だ。

私が「Happy Japan!」で着ている制服は海外青年協力隊の ものだ。海外青年協力隊は40歳までの男女を2年間いわゆる開発途上国に派遣し、日本語や自動車の修理、農業を教えたり、コンピュータシステムの構築など にかかわらせたりする、国家が後押しする組織だ。中国にも地方を中心に日本語教師、農業指導などの職種で多くの若者が派遣されている。私は1992年- 1994年東アフリカ、タンザニアの新設美術学校で版画を中心に美術を教えていた。この組織に参加するためには試験を受け、約3カ月の合宿訓練に参加しな ければならなかった。私は仕事を手配する事務所や両親・友人に2年間タンザニアに行くことを告げ、自宅の借家を整理し友人に2年間住んでもらうことにし た。大家にもそのことを了承してもらった。つまりすでに日本を離れることを前提に合宿に参加していた。合宿が終わってから出発まで10日ほどしかなかった ためもあった。訓練の最後に協力隊の総裁である天皇に「拝謁」する行事があった。私は自分の考えをまげて他の隊員多数とともに天皇に「拝謁」した。「拝 謁」に参加することを拒否して、そのことが原因で海外青年協力隊に参加できなかった場合、法的に戦うことはできた。しかし、まったく別の原因(たとえば健 康や訓練中の態度)で参加させなくするという脅しを訓練所の教官たちから受けたからだ。つまり私は協力隊行きを断念することでこうむる、仕事に復帰できな い、友人に迷惑をかける、両親などに恥ずかしい、裁判は面倒だという気持ちを天皇に「拝謁」したくない気持ちよりも優先させたのだ。

私が「Happy Japan!」で口に詰め込んでいく小林よしのりの漫画「戦争論」は、発売されて2年以上たつが現在も若者を中心に100万部近くを売り上げている(小林 は現在問題になっている教科書を作る会の重要なメンバーでもある)。日本軍は朝鮮・韓国そして、東南アジアの女性たちに性的なサービスを行なわせるため、 無理やり引き連れていた(軍の言い方では従軍慰安婦)。彼女たちは日本軍の性的奴隷そのものだった。しかし、小林よしのりの漫画では、彼女たちはその行為 により報酬を得ていたのだから、ただの売春婦だった(つまり、日本軍は彼女たちに対して罪を犯していなかった)と主張するのだ。私はこの主張に彼女たちへ の共感を欠いた、とても冷たい自分勝手さを感じる。しかし自分はというと、現在の天皇を総裁とする海外青年協力隊という、日本文化を押しつける「平和な軍 隊」ともいわれる組織に参加し、タンザニアの酒場で日本円の強さを暗黙の了解にして、多くの女性たちに酒をおごり、ちやほやされ、いい気になっていたの だ。

私は小林よしのりに熱中する多くの若者たちが、歴史の事実をねじ曲げる保守・右翼論者たちに耳を傾けるのは、それが自発的であるだけに危険だと思っている。
しかし、これについても私自身が25年前に、まったく逆の形で経験したことだった。

その頃、高校で習う歴史に疑問を抱き、社会の矛盾に悩んでいた私は、羽仁五郎というマルクス主義歴史家の著作に影響を受けた。1975年頃は70年にピー クを迎えた日本の左翼的学生運動が衰弱していく過程にあったが、その中で羽仁は独自のマルクス主義歴史観で左翼的学生運動を鼓舞していた。その頃彼は学術 書よりも、その歴史観を展開した社会批評を多く著し、大学などでの講演活動を精力的に行なっていた。彼は「日本のいろいろな問題はすべて資本主義体制に原 因を持っている。それを解消するには社会主義、あるいは共産主義の社会に変革していかねばならない」そして「どんなにスターリンが多くの罪のない人々を粛 正したといっても、現在の日本よりもソ連のほうが住みやすい。また中国の文化大革命は民衆による政治への直接参加の実験であり、素晴らしい。ともかくどの ような点においても社会主義は資本主義よりも優れている」と繰り返し語っていた。私は、社会主義という考えに初めて接したために圧倒された。そしてどうし ようもない日本の現実と比べて、彼の語る社会主義国を夢のように思ったのだった。

そのため、その後長い間中国、ベトナム、カンボジア、ソ連、東欧諸国、北朝鮮などの社会主義国の、または関与した国際事件に対しての報道が資本主義国(西 側)の通信社によって行われている虚偽のものだと考えていた。たとえばカンボジアでのポルポト派の大虐殺も西側によって大げさに報道されていると漠然と考 えていた(つまり、社会主義の国ではそこまでひどいことをしないだろう。それは西側が社会主義を悪く見せるために行った報道なのだろうと考えていたのだ。 事実ベトナム戦争、キューバなどについては西側による虚偽の報道もあった)。そして社会主義国で行われていたことをいろいろな角度から考え、そこに住む民 衆がどういう気持ちで生きていたのかについて想像することすらしなかった。80年代の終わり、東欧諸国の革命が始まって、やっと社会主義と資本主義(左- 右あるいは東‐西)という構図を外して、民衆の立場、つまりもし自分がそこにいたらどうだろうという視点で考えられるようになってきた。

だから、私は小林よしのりを支持する若者たちに「君たちは保守派に騙されている。そういう考え方は日本国内の外国人には敵対し排除しようとし、国際関係に ついては日本の考え方を他国に押しつけ、お互いの立場を考え合うことを拒否することになり危険だ」と言っても簡単に聞き入れられないであろうことは、わ かっている。私自身がかつて新聞報道でさえも右派による虚偽の報道だと思っていたのだから。では、彼らとどう向き合えばいいのか? この状況に対してどう 発言できるのか? インターネットの掲示板で彼らと論争すべきか? 新聞や雑誌に私の意見を投稿すべきか? 彼らの動きに反対する市民運動に参加すべき か?

2000年12月20日朝のことだ、
「結論から言うと、今回中国人のビザは出ないということです。その理由は一切言えません。担当官の決定です。中国人には後日連絡が行くでしょう」と外務省 の係りは初めてはっきりと言った。電話の前で呆然とした。明日は彼らの来日というのに、とうとう最後通告を突きつけられたからだ。エアチケットはすでに送 り、中国の友達とともに毎日毎日ビザが下りるのを待っていたが、あまりに出ないので、ここ一週間毎日のように外務省に電話をかけていた。しかし、いつも はっきりしない返事だったのだ。

舒陽と陳進(中国唯一の国際パフォーマンスアートフェスティバル「Open Art Festival」の主催者)は私が実行委員のひとりであった2000年の12月23、24日のイベント「Perspective Emotion 3」 (1998年、1999年開催。向井千恵主宰)に参加するためにビザを申請していた。彼らがアーティストとしてのビザを取るためには、私たちの 「Perspective Emotion」がしっかりした団体であることを日本国に認めてもらう必要があり、今回は時間がなくその方法を採れなかった。そのため私が個人的に中国の 友人を呼ぶという形のビザにした。私は招聘保証人として

1.彼らの来日の目的と、その詳細な日程表、および来日中の保証人となることへの同意書
2.彼らとどういうことで知り合いになったかの経緯書
3.写真、手紙等友人関係を証明するもの
4.中国に行ったことがあるのならば、そのパスポートのコピー
5.課税証明書
6.住民票

以上の書類を舒陽と陳進を通して中国の日本大使館に提出しなければならなかった。
もちろん舒陽と陳進は彼らの必要書類を作成して提出した。5についていえば、わたしの課税証明書での所得は140万円ということだった。以前日本に中国の 友人を呼んだ友達は「荒井君、500万円が相場って話だよ」というので、外務省に確認した。額は関係ないが多いに越したことはないというニュアンスだっ た。そこで、サラリーマンの友達にも保証人になってもらい、彼の課税証明書もつけた。というのは「Perspective Emotion」の実行委員には私よりも多く税金を払っている者はいなかったのである。
なぜ、これだけの書類を用意してビザが取れないのか? 一週間の電話のやり取りで見えてきたことは、外務省は中国人にビザを出したくないということだっ た。これは中国だけでなく、ビザの申請に日本人側の招聘保証人を必要とする国すべてがそうなのである。少なくとも欧米人の来日には観光ビザであれば、日本 人側の招聘保証人など必要としない。係りの人間は事務的に「ビザの発行は今回難しそうだ」と言いながら、私が執拗に食い下がると「中国人が簡単に日本に来 日するようになると、どういうことになるか不安でしょう。それで、私たちも審査を厳しくしなくてはならないのです」と何回も言うのであった。しかし、これ ほど条件を厳しくしておいて、まだまだ「簡単に」来日できるというのだろうか? あるいは貧乏日本人は中国の友達を呼んではいけない、貧乏日本人は中国人 の不法入国の手伝いをするとでもいうのか?
陳進には、その3カ月後(2001年2月)フィンランド・ヘルシンキの「EXITフェスティバル」(Roi Vaara主宰)で会った。私が陳進に「フィンランドのビザは大変だった?」と聞くと「No problem」と笑っていた。

その後、2001年春外務省の機密費が問題となった。機密費は会計監査を受けないお金で、外務省の責任者がそれをいいことにして何年にもわたって何億円も の金を自由に使っていたというのである。彼の個人的な犯罪のように処理されたが、実際には政治家も絡んだ外務省の組織的犯罪ではないかといわれている。外 務省は日本より貧しい国の人々を犯罪者ではないかと恐れ、理由を開示せず、一方的にビザを発給しない。それを彼らは国益を守ることだと言っていたのだ。し かし、書類が完備して保証人もいる人々すべてにビザを発給したとしても、彼らの仲間が犯していた罪以上のことを、つまり国益を損なうようなことを、来日し た人々がやるとは思えない。むしろビザが発給されなかったことで、外国の友人との信頼関係がややこしくなり、日本を悪く思う人々(その多くが近隣諸国であ る)が増えることのほうが国益を損ねると思うのだ。

結局、私はパフォーマンスを続ける。観客はいつも少ない。しかし、こうやって豊かで、民主主義が成熟し、表現の自由があるといわれる日本で、ただ、こう叫ぶしかないのである。
「Happy Japan! Happy Japan!」と。


荒井真一(1959〜)
1983 東京都立大学人文学部中国文学科卒(飯倉照平氏に師事)
1981−84 美学校・吉田克朗銅版画工房
1985−87 同助手
1985−89 ミニコミ誌「仁王立ち倶楽部」主宰(現在・中断中)
1987 School of Visual Arts(NYC)のサマーセッションに参加
1990-91 武蔵野美術大学大学院造形研究科版画コース中途退学
1992-1994 タンザニア・ザンジバルニュンバ・ヤ・サナー」美術学校で専任講師(青年海外協力隊)

●パフォーマンス
1982年「音・声・言葉」東京都立大学
1983年「天国注射の昼」(赤木電気、+サエグサユキオ+星野正治+久住卓也+赤木能里子)東京・日比谷野外音楽堂
1984年「ぴくぴくとふるえる」(+田中トシ)横浜・関内埠頭
1986年「慶應大学地下室のために」(クロイッフェルト・ヤコブ、+桑原正彦+谷川まり)三田・慶應大学
1987年「A-Mikeの地下室のために」(現場の力、+サエグサユキオ)ニューヨーク・A-Mike
1988年「夏の花、広島、死にゆく昭和天皇」(+園田佐登志)東京・駒場東大学寮庭
1989年「昭和大躁/昭和大喪に抗して」(+園田佐登志)東京・早稲田奉仕園
1990年「かがやく魂」(+桑原+サエグサ+田中+谷中正典)中野・テルプシコール
1991年「漂泊者とその影」(現場の力、+サエグサ+谷川)大阪・キリンプラザ
1995年「敗戦50年」(現場の力、+サエグサ)大阪・ピース大阪
1996年「労働の夢、夢の労働」(福福物語、+鈴木健雄+サエグサ+谷川)富山・市民文化センター
1997-98年「部族紛争--多数派対少数派」
1998年10月「部族紛争--多数派対少数派」 ソウル・ソウル文芸会館(第9回韓日ダンスフェスティバル
1999年10月「Row Your Boat」(現場の力、+サエグサ)ニューヨーク・Japan Society
1999年11月「Happy Japan! Happy family!」東京・West Endスタジオ
1999年12月「日の丸の子供たち」(現場の力、+サエグサ)東京・Wenzスタジオ(第2回「透視的情動」
2000年 3月「Happy Japan!」ジャカルタ・Utan Kayu劇場、台北・Police Station小劇場
2000年 8月 「Happy Japan!」北京・陳進宅(第1回 Open Art Platform Performance Art Festival)
2001年 2月「Happy Japan!」他 ヘルシンキ・ケーブルファクトリー(EXIT festival)
2001年 8月 「Happy Japan!」他 四川省各地(第2回 Open Art Festival)
2002年 6月 「Happy Japan!」他 香港、広州(陳式森による"Performance tour for 6/4 in Hong Kong and Guangzhou 2-18 June 2002")
"Tourist #4--Globalism/Internationalism", "Happy Japan!" Xi'an
"Tourist #5: For E. H. Norman" 7a*11d 4th International Festival of Peformance Art in Toronto, Canada
"Tourist #6:YOU ARE NO GOOD" The 4th ASIATOPIA 2002 in Bangkok & Chiangmai, Thailand
2003"Tourist #6:YOU ARE NO GOOD" Beijing-Tokyo art project Beijing, China
"Tourist #7:VIVA Globalism" PIPAF Manila, Philippine
"Tourist #7:VIVA Globalism!--at ex-capital city of Manchukuo--"The 4th Open Art Festival in Changchun, China
2004
"I like Japan!" The International Performance Art Festival in Bandung, Indonesia
"Tourist #7:VIVA! Globalisation--Azinomoto--""Tourist #8:Jun-ichiro"Wed Action #4 in Jogjakalta, SOLO ACTiON! in Solo, Indonesia

●個展
1983年 ギャラリーKIREI(富山)
1984年 インデペンデントギャラリーII
1985年 田村画廊
    ギャラリー射手座(京都)
1986年 ギャラリー葉
1989年 ギャラリーPRISM(仙台)
     篁画廊
1990年 田村画廊
1991年 真木・田村画廊
     キリンプラザ・大阪
1997年 「漂泊者とその影--隠蔽された歴史--」銀座・兜町・靖国神社路上

●グループ展
1982年 「神奈川版画アンデパンダン展」県民ホールギャラリー(神奈川)
1983年 「ARTRANS-GIGMENTA 83」AXISギャラリー
     「BLACK NOISE」かねこあ一とGI
1984年 「東京藝術SUMMIT84」テルプシコール
1985年 「京都アンデパンダン展」京都市立美術館
1986年 「万象の変様プレ展」パレルゴン・
     「万象の変様」埼玉県立近代美術館
1987年 STUDENTS' GALLERY of S.V.A./NYC
1989年 多摩川ふっさ野外美術展/福生
1990年 釜山青年ビエンナーレ/釜山文化センター
    多摩川野外美術展/福生
1991年 多摩川野外美術展/府中
     Group show/東京都美術館第二彫塑室
1992年 日本南アルプス野外展/大町
1993年 「複数の署名」展 佐賀町エキジビットスペース

●展評等:『美術手帖』83年10月号(田中幸人)、同87年1月号(特集;ネオ=グラフィズムの王国)、同89年7月号(特集;'90年代美術の予兆)、『21世紀版画』90年12月号(特集;90年代注目のアーティストを問う)、『図書新聞』2000年9月9日号(足立智美 http://adachi_tomomi.tripod.co.jp/a/text/paf.html
Art AsiaPacific Spring 2004 No.40 "Sosial TensionsArai Shin-ichi -Creativity and Abject Nationalism-" Berenice Agremy


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