小東亜共栄軒08
2008年4月26日(金)−5月5日(月・祝)
東京・名古屋・富山


荒井真一


1959年生。1982年美学校で吉田克朗から銅版画を学ぶかたわら、サエグサユキオ、久住卓也、ホシノマサハル、赤木能里子と「赤木電気」を結成、即興パンクおよびパフォーマンスを始める。83年「天国注射の昼」における「日比谷野音、赤ペンキぶちまかし事件−川俣軍司に捧ぐ」で、公園管理事務所から永久使用禁止を言い渡される。その後「大昭和発電」(桑原正彦、久住と)、「現場の力」(サエグサと)、「福福物語」(鈴木健雄、谷川まり、サエグサと)に参加。99年以降作品Happy Japan!などでソロ活動。韓国、フィンランド、インドネシア、台湾、中国、香港、ビルマ、カナダ、英国、米国、ドイツ、フィリピン、タイで公演。06年東アジア(フィリピン、中国、タイ、インドネシア、香港)の5作家を招き「大東亜共栄軒」を企画。日本での公演はその作品の性格上、非常にまれ。


Lee Kwangnan(リー・カンナン/中国) + 荒井真一
"グロバリ万歳! 丁玲のために"
(2007年9月「第8回Open Art Festival」

リー・カンナン丁玲「国際婦人デーに感ありを朗読する。
このエッセーは1942年、延安の紅軍(中国共産党)キャンプの文学者向け新聞(1942年3月9日「解放日報」副刊「文芸」)に掲載された。丁玲はその新聞の編集長であった。
延安は日本軍、国民党軍に中国の主要都市で敗北した共産党が体勢を立て直すための、最重要拠点だった。また毛沢東がその最高責任者だった。政治家、軍人だけでなく、文学者、ジャーナリスト、画家なども集まり、共産党の戦略に協力した。つまりたくさんの共産党に協力する文学者(それも一線級の)が集まり、その人たちの新聞も発行されていたのだ。
その新聞に「国際婦人デーに感あり」は掲載された。
そこで丁玲は共産党の男性幹部が有能で美しい女性と結婚し彼女たちを消耗させ(党活動と家内労働で)、ついには離婚し、新しいパートナーを見つける風潮を指摘し、国際婦人年にありきたりの女性の人権を唱えるのではなく、こうした延安、共産党内で起こっている風潮を具体的に議論すべきだと提起した。
この論文は、そのころ男性作家・王実味のアナーキスト的な党批判の新聞への掲載を容認していた編集長・丁玲への不信感とともに問題にされた。
つまり、日本軍、国民党と戦う現状で仲間内で論争を起こすのは「反党」的である。革命の前に男性/女性の問題を騒ぐべきではない。男女心をひとつにして革命に当たるべきだと。つまり、丁玲は「党の敵、人民の敵、革命の敵」であると。
ついに丁玲は「国際婦人デーに感あり」の立場を自己批判した。
また、王実味は「国民党のスパイ」として「王実味派」のほかのスパイ仲間を追及され(もちろん実際にはそういうグループは存在しなかった)、ついには処刑された。

音楽:
"自殺について"
ブレヒト作詞/アイスラー作曲
A-Musik演奏

"知らなかった(I Didn't Know)"
"I Want My Love To Rest Tonight"
小野洋子とプラスティック・オノバンド演奏



荒井は頭で「丁玲」とキャンバスに描く


キャンバスにウォーホルによる「毛沢東」のポートレイトと、
80年代に訪米しディズニーランドでミッキーマウスと握手する昭和天皇の写真を貼る。
そして、ミッキーマウスマーチをかけ、おもちゃの銃を持ち行進する




日本の雑誌の女性ヌード写真を並べ、舐め、口に押し込む。
そして、逆立ちし叫ぶ。
ビバ! グローバリゼーション
ビバ! マクドナルド
ビバ! ポルノ
ビバ! コカ・コーラ
ビバ! オリンピック
ビバ! ディズニー
ビバ! ..........
と.

荒井はCoca-Cola、McDonald、Olympicという文字を書き続け、ついにはキャンバスをピンクにしてしまう

Lee Kwangnan(リー・カンナン/中国) + 荒井真一
"グロバリ万歳! 丁玲のために"


荒井真一
"グロバリ万歳!"
tutoK2、マニラ、フィリピン(2008年2月29日)

From Ayi's Site
http://oyayi.multiply.com/video/item/35/Viva_Globalization


三八節(国際婦人デー)に感有り

丁玲

「婦人」という言葉はどんな時代になれば、重視されなくなり、とりたてて持ち出される必要がなくなるのだろうか。
 
 毎年この国際婦人デー(3月8日)がやってくる。この日になると、ほとんど全世界の各地で大会が開かれ、女たちの隊列が検閲される。延安はこの2年は以前ほどにぎやかではないが、それでもやはり何人か忙しくしている人があるようだ。そしてきっと大会が開かれ、演説があり、電報を打ち、文章が発表されるだろう。
 
 延安の婦人は、中国の他の場所の婦人よりも幸せである。たくさんの人がねたましそうに羨ましそうに「どうして粟を食ってて女の同志の腹はあんなにふくれるんだろう?」と言う(粟は当時辺区で主食として配給されていたが、充分ではなかった。粟にはまた、もう一つの意味、おそらく男が暗示されていると思われる)。女の同志は病院でも休養所でも診療所でも大きな比率を占めているが、誰も不思議に思わないようだ。けれども延安の女の同志は、どんな場合でも、最もおもしろい問題として話されるという幸運を免れえない。しかもいろいろな女の同志は、いずれも彼女の得るべき非難を得ることができる。それらの難責はみな厳しくて、当を得ているものらしい。

 女の同志の結婚は永久に人々の注意をひき、しかも人々を満足させることがない。彼女らは一人の男の同志とそう親しくできないし、数人の男とはもちろん親しくはできない。彼女らは画家たちから「科長さまでも嫁に行くのか」と諷刺され、詩人たちも「延安には馬に乗ったえらいさんしかいない。芸術家のえらいさんはいない。芸術家は延安ではきれいな恋人を見つけられない」と言う。けれども彼女らはまた時によってはこんな訓辞をも聞く。「畜生め。おれたち老幹部をバカにしやがって。田舎者というが、おれたちが田舎者でなけりゃ、おまえ、延安まで粟食いに来られたか」。だが、女はどのみち結婚しなければならない〔結婚しないのほもっと罪悪で、もっと多くデマ製造の対象とされ、永久に侮蔑される〕。馬に乗っているのでなければワラジばきで、芸術家でなければ総務科長だ。彼女らはみな子どもを生まざるをえない。子どもにもそれぞれの運命があり、あるものは細い毛糸や花柄のネルにくるまれて、保母のふところに抱かれ、あるものは洗いもしない布きれにくるまれ、ベッドに放っておかれて泣きわめき、おっかさんとおとっつぁんは子どもの手当〔毎月二十五円、二斤半の豚肉にあたる〕をむさぼり食っている。もしこの手当がなければ、彼らははじめから肉の味など味わえなかったろう。
 
 けれども女の同志は、いったい誰の所に嫁に行けばよいのか。事実はこうだ。子どもを持たされたものは必ず公然たる非難を受ける。「家に戻ったノラ」と。しかし保母を持てる女の同志は、毎週1回最も衛生的な社交ダンスをすることができる。背後から非難の言葉や口笛が聞こえてきはするだろうが、彼女が行くところは、どこでもにぎやかになり、馬に乗ったのであろうと、ワラジばきのであろうと、総務科長であれ、芸術家であれ、その目はみんな彼女のほうを眺める。これは一切の理論と関係なく、一切の主義思想とも関係なく、一切の開会演説とも関係ない。けれどもこれは誰でも知っており、誰もが口にしないで、しかも実行している現実である。
 
 離婚の問題も同様である。およそ結婚するときには、注意しなければならない3つの条件がある。1つ目は政治的に純潔であるかないか。2つ目は年齢、容姿がかけはなれていないか。3つ目は互いに助け合うかどうかである。この3条件はほとんど誰でも満たしているとはいえ〔公然たる漢奸(裏切り者)はここにはいない。そしていわゆる助け合いも靴や靴下のつくろいから、女性の慰めまでも含めていえる〕、きっとおおっぴらに考えたことに違いない。ところが離婚の口実はきまって女の同志の落後なのだ。わたしは女自身が進歩しないで、その夫までひきとめるのは恥ずべきことと思う。しかし、われわれは彼女がどうして落後したのかを見なければならない。
 
 彼女らは結婚するまでは雲をも凌ぐ志をいだき、苦しみにうち克つ闘いの生活を送っていた。彼女らは生理的な要求と「互いに助け合おう」という甘い約束の下に結婚した。そこで彼女らは迫られて気苦労な、家庭に帰ったノラになったのだ。彼女らはまたひたすら「落後」の危険性を恐れ、あちこち馳けずりまわって、厚顔にも托児所が自分たちの子どもをあずかってくれるよう要求し、子宮摘出を要求し、どんな処分を受けようとも、生命の危険をおかしても、こっそり堕胎薬を飲まざるをえないのだ。そして彼女らは次のような答えを聞く。「子どもをつくるのが仕事じゃないか。快適さばかりむさぼり、大きなことばかり好む。君たちはいったい何か大した政治工作をやったことでもあるのかね。そんなに子どもを生むのを怖がってるうえに、いったん生んだらこんどは責任を負おうとしない。いったい誰が結婚しろと言ったかね」。こうして彼女らは「落後」の運命を免れることはできない。
 
 仕事の能力のある一人の女が、自分の事業を犠牲にして良妻賢母になれたとき、ほめたたえられなかったわけでもない。だが10年の後に彼女は必ず「落後」の悲劇を逃れることはできない。たとえ今日、一人の女であるわたしから見ても、これらの「落後」分子たちは、やはり実際かわいい女ではない。彼女らの肌はしわがよりはじめ、髪は少なくなり、生活の疲労は彼女たちから最後の愛嬌すら奪ってしまう。彼女らがこうした悲運に遇うのは、ごく自然なことのように見える。それでも、古い社会ならあるいは可憐、薄命といわれたかもしれない。ところが今日にあっては自業自得なのである。法律上では、離婚は一方が提起するだけでよいか、あるいは双方が同意しなければならないか、という問題で論争があるそうではないか。離婚はほとんど大半が男のほうから言い出すもので、かりに女であったなら、それは必ずもっと不道徳なことであって、完全に女のほうが呪詛を受けなければならない。

 わたし自身は女であるから、他人よりも女の欠点がよくわかる。だが、もっと女の苦痛がわかる。彼女らは時代を超えたものではありえないし、理想的でもありえない。彼女らは鉄でできてはいないのだ。彼女らは社会のあらゆる誘惑と声なき圧迫に抵抗しきれなかった。彼女らは、誰もが血と涙の歴史を持っており、誰もがかつては崇高な感情をいだいたことがあるのだ〔上昇したものか、没落したものかにかかわらず、幸福であるか不幸であるかにかかわらず、今もなお孤軍奮闘しているか庸俗に落ちこんでいるかにかかわらず〕。このことは、延安にやってきた女の同志についてはさらにうそいつわりではない。だからわたしは大きな寛容をもって、犯罪者におちぶれたとみなされた一切の女を見るのである。そしてさらに男たちに、とりわけ地位のある男と、そして女自身に希望する。これら女の過ちを社会と関係づけて見ることを。空論は控えて実際の問題を語り、理論を実際から逸脱させないということについては、どの共産党員も倫理的にそれぞれ自己に対して責任を負わなければならない。
 
 しかしながら、わたしたちはまた女の同志たちに対し、とりわけ延安にいる女の同志に、いささかの期待をしないわけにはいかない。そして自己を励まし、友を励ますことを。

 世界には無能な人間などいたことはない。一切を獲得する資格はあるのだ。だから、女が平等をかち取るには、まず自らを強くしなければならない。わたしが言うまでもなく、みんなわかっていることだ。そして、きっと今日も「まずわれわれの政権をかちとらねばならない」と大口をたたいて演説する者がいるだろう。わたしはただ、一つの陣営の一員として〔プロレタリアートであれ、抗戦であれ、婦人であれ〕日々心がけねばならぬ事項について述べるだけだ。

 第1は自分が病気にならぬことである。不節制な生活は時にはロマンチックで、詩的であり、愛すべきもののように感じられるだろうが、今日の環境には不向きである。誰も自分以上に自分の生命を愛することはできない。今日健康を失うほど不幸なことはない。健康のみがあなたに最も親密なものであるから、よく気をくぼり、大事にしよう。

 第2は自分を愉快にすることである。愉快のなかにこそ青春があり、活力があり、生命の充足を覚え、それあればこそ一切の困難を引き受けうると感じられる。そこにこそ前途があり、楽しみがあるこうした愉快さは生活の満足ではなくて、生活の戦闘と進取である。だから毎日なにか有意義な仕事をしなければならないし、少しは本を読まなければならないし、そうすれば人に与えるものをもてるだろう。怠惰は生命の空白、疲労、枯渇を感じさせるだけだ。
 
 第3は頭を使うことである。いちばんよいのは習慣にすることである。思索をせず、流れに任すという欠点を改めよう。一言いうにも、一つのことをするにも、最もよいのは、この言葉は正確かどうか、このことはやりかたが当を得ているかどうか、自己の人間としての原則に背いていないか、自分が責任を負えるかどうかを考えることである。こうすれば後悔することはないだろう。これがつまり理性的にということである。こうすれば、だまされず、一切の甘言にまどわされず、小利に誘われることはないだろう。また情熱を浪費し、生命を浪費することもなく、煩悩を免れるだろう。
 
 第4は苦しみをなめる決心をし、最後までねばり強くやりぬくことである。現代の目覚めた女として生まれたものは、一切のバラ色の温かな幻想を犠牲にする覚悟がなければならない。幸福とは嵐のなかでの格闘であって、月下で琴を弾き、花を前に詩を詠むことではない。もしも最大の決心がなければ、きっと中途で投げ出してしまうだろう。悲苦でなければ、堕落である。そして、こうした持続してゆくカは「ゆるがぬ意志」を持ちつづけることによって養わなければならない。大きな抱負のない人間は、利益を食らず、快適を図らない、こうした忍耐の精神を持つことはむずかしい。そしてこうした抱負は、真に人類のためにし、己のためにしない人にしてはじめて持つことができるのである。

付記
文章は書いてしまったが、自分でもう一度読み返すと、期待するところについて、まだたくさんの意見があると思った。だが締め切り時間が迫っていて、整理することもできなくなった。
しかしまたこうも思う。ある部分はもしも指導者が大会ででも話せば、痛快だと思う人がいるかもしれない。しかしながら女の筆で書かれては、いくらでも取り消せる。だがいったん書いてしまったのだからやはり同感の人たちに読んでもらおうと
(1942年3月9日「解放日報」副刊「文芸」98期)

丁玲著「丁玲の自伝的回想」中島みどり編訳 朝日選書199(1982年)より


公式ホームページ
http://www.araiart.jp/


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