哀悼と戦闘

エイズ実践運動の私の師、グレッグ・ポードウィツのために(2/3)

ダグラス・クリンプ/笹田直人訳

このようにして、注目に値する国際的エイズ活動家の一人が、闘争に従事することになった。ブルーノにまつわる記憶は、これ以上喚起されることはあるまい。われわれ誰もが、このような物語をもっており、エイズ危機のさなか、亡くなった友人と結ぴついたもろもろの記憶や希望と、われわれの意識に加えられる日毎の攻撃とのあいだにはほぽ必然的な関係があると言ってもおそらく過言ではあるまい。凄まじい攻撃にさらされた人々には、喪失という重大な時に、社会は滅多に存在しない。フロイトは「われわれは〔哀悼への〕干渉が、何であれ、奨められないか、あるいは有害ですらあるとみなしている」と警告する。しかし、エイズ危機とともに日々を暮らす者なら誰にとっても、死別への無情な干渉は、『ニューヨーク・タイムズ』を読むのと同じくらいありきたりな出来事なのである。われわれが遭遇する暴力は情容赦のないものであり、沈黙と不作為の暴力は、抑え切れない憎悪と明白な殺人の暴力と同じように、殆ど耐えがたいものなのだ。この暴力が死者の記憶を冒涜するものでもあるがゆえに、われわれは死者の記憶を守り抜くために怒りをもって決起する。われわれの多数にとって、哀悼は戦闘になるのである。もし哀悼が干渉されたらどうなるのか、フロイトは述べなかったが、われわれの意識的防衛が社会行動に向けられる限りにおいて、フロイトが哀悼の成就に起因すると考えた現実尊重は示されたことになる。それにもかかわらず、われわれは、どんな強敵と争ってか、またどんな無意識の効果を伴ってか、いかにして哀悼が成し遂げられたのかをこそ、間い統けなけれぱならない。実践への衝動は、哀悼のプロセスのなかの二度目の葛藤によって増強されるかもしれない。「現実は、哀悼の対象がもはや存在しないという判断を、失われた対象にリビドーを結ぴつけていたもろもろの記憶や期待に下す。そして自我は、この運命を受け容れるか否かの決断に言わぱ直面して、自分は生存可能であるという自己愛的満足の総和に説得され、非在の対象との結ぴつきを断ち切ってしまう」とフロイトは説明する。しかし、現実とのこうした直面は、現に哀悼しているゲイたちにとっては殊に困難なことである。なぜなら、この運命を受け容れるか否かのわれわれの決断は、きわめて不確実だからである。エイズと共に生きる人々、HIV感染者たち、そして自らの血清状態を知らないために大変な危険を冒している人々は、まだ今日を生存可能であるという自已愛的満足によって、死者との緒ぴつきを放棄するよう説き伏せられてしまう可能性があるし、無意識のなかでは間遠いなく説き伏せられてしまうだろう。しかし、われわれは、生き延ぴようとする闘いから生存可能への自己愛的満足をいかにして切り離すべきなのか。そして、われわれが死者たちと共闘する限りにおいて、そのような自己愛的満足は、これまで生き延ぴてきたことの罪悪感をいかにして免れうるのか。亡くなったわれわれの友人や恋人の記憶を大切に守リ、われわれ自身生き統けることを決意するためには、抵抗せよ!という同一の要求が課せられるようだ。哀悼は降伏と同様、うんざり感じられるものだ。しかし、われわれは、そのような記憶と決意が生き残った者に苦痛にみちた罪悪感を惹き起こすのだということも同時に認識しなけれぱならない。それは、恋人や友人の引き延ぱされた病いのさなか、ともかく彼らが死んでくれて自分たちが元の通りの生活を再ぴ続けていけたらという秘かな願いを抱いたことによって募らせた罪悪感である。

そのうえで、われわれは哀悼と実践主義との矛盾に関するわれわれの、そしてフロイトの意識を部分的には変えることができる。そして、エイズによる死と関わる多くのゲイの男性たちにとって、戦闘は、哀悼それ自体の内部での意識的闘争から生ずるかもしれない、と言うことができる。それは、一方では悲しみへの「奨められないか、有害ですらある干渉」の結果であり、他方では哀悼する者が哀悼される者と同じ運命を分かちあえるかどうか決意しかねるための結果である。しかし哀悼は心的過程であるから、外からの干渉に対する意識的反応だけで、すべてが明らかになるわけではない。それより見定めるのがはるかに困難なのは、その反応が、すでに存在している無意識の闘争からどのような影響を蒙るかということだ。しかし、無意識なものの役割を認識することによってのみ、われわれの悲しみへの外的障害と哀悼へのわれわれの敵意との関係を理解することが可能になる。だが私としては、次のことを明らかにしておきたい。つまり、私がその関係を理解したいのも、哀悼に対するわれわれのいらだちが運動の重荷になるからをのだ。私は、エイズ実践主義の「心理起困」を持ち出すつもりなど毛頭ない。われわれが日々出会う社会的・政治的野蛮状態は、われわれの戦闘が何であれ、それに対しては、まったく何の説明も求めてこない。それに反して、ラリー・クレイマーの不満が示唆するように、説明が必要かもしれないのは、静寂主義なのである。ニュー一ヨークで毎週開かれるアクト・アップの集会には、毎回およそ400名ほどの人たちが出席しているが、そのなかで私の世代、ストーンウォール・ジェネレーション[1969年6月28日ニューヨーク・クリストファー通リの「ストーンウォール(=抵抗)」という店が警察の手入れを受け、ゲイたちは集団で抗議し、ゲイ・リペレーションの先駆的事件となった]に属する者がほんの一握りしかいないという事実に、一私は驚いた。出席者の大半は、ポスト・ストーンウォール世代の者であり、ゲイ・リペレーションの運動そのものがようやく始まった頃に生まれた世代である。彼らの失ったものは、ある一つの重要な点でわれわれのと違っている。昨年、彼らの世代のうちの一人が、その違いを明らかにするようなことを言った直われわれのグループは、ゲイ&レズビアン実験映画祭で70年代の映画を見たあと、飲みに行った。その若者は、私にはかなり普通のものに思えた映画のセックス・シーンにとても興奮していたのだが、彼は次のように言った「精液がどんな味がするのか、是非知りたいなあ、相手の人の精液っていう意味だけど」。私は二つの異なる理由で、心が痛んだ。一つには彼が精液の味を知らないからであり、もう一つには、私は知っているからであった。哀悼は、愛する者の死に対する反応であるぱかりでなく、「祖国、自由、理想など抽象的概念の喪失が惹き起こされたこと」に対する反応でもある、とフロイトは指摘する。この「上品な」リストに、性的快楽の昇華から発生するものよりむしろ、倒錯した性の快楽そのものを加えてはもらえないものだろうか。陰気な弔鐘が鳴り響くとともに、われわれの多数が失ったのは、バーの奥で、公衆便所で、書店で、映画館で、浴室で、トラックで、埠頭で、散歩道で、砂丘で、というセックスのさまざまな可能性の文化である。われわれにとって、かつて性は至るところにあり、われわれが冒険的に試みたいと願うとても大切なものであった。小便浴、排尿に伴う性行為、男根接吻、肛門接吻、肛門挿入、肛門拳挿入。今や、われわれの制御されざる衝動は再ぴ禁止され、あるいはゴム樹脂によって保護されるようになってしまった。食用だからという理由でわれわれが用いる潤滑剤のクリスコでさえ、ゴムを破るからというので禁止されている。さまざまな性具は、もはや歓喜を高める補助具としてではなく、より安全な代用品として使われている。生殖のための強制的なヘテロ・セクシュアリティという文明の法則に従う人々にとっては、われわれが失った選択肢はまったく抽象的にしか考えられないかもしれない。エイズ危機が到来するまで一般的には認められなかったが、われわれの性生活は今や、魅惑と嫉妬をもって、ごく一部には装われた棲疑の念のもとに広く精査されている(たとえぱウィリアム・ダンマイアーは、さっき私が列挙した快楽のリストを1989年6月26日の『米国議会記録』に収録した)。恋人や友人の喪失を悲しむのと同じように、われわれが束縛されず防護の必要もないセックスの喪失を悲しんでいると主張しても、連帯責任を、いわんや寛容を呼ぴかけていることにはほとんどならないだろう。もっとも、寛容は、パゾリーニが言ったように「いつも、そして純粋に名目的なもの」であり、単に「比較的洗練された非難の一形式」にすぎない。エイズは、この論点をさらに深く証明してきた。われわれの快楽は、いずれにしても決して寛容をもって遇されたことはなかった。われわれは、快楽を満喫したのだ。そして今度は、快楽を哀悼もしなけれぱならない。われわれが理想を哀悼して、死者を哀悼する際と同じような非難に出会うとき、われわれは別の審級の精神的苦境に陥る。なぜなら、われわれの快楽の記憶は、両価感情をすでに孕んでいるからだ。安全なセックスという習慣が幅広く受け容れられて、われわれが生き抜いていく能力を証明したのと丁度同じように、多数のゲイの男性が過去の性行為とは縁を切ったことが両価感情を証明している。失われたセックスの理想を哀悼したうえで、おそらくわれわれは、安全なセックスがわれわれを代用的に招き寄せるリビドーの地位についたものとさえみなしているのかもしれない。しかし、ここに来て、ゲイの世代間の差異がきわめてはっきりと感じとられると私は思う。20代の男たちにとって、われわれのセックスの理想は、一つの理想としては、決して呑みこんではならない精液といったところに感じられるのだろう。安金なセックスに帰依することは、彼らにとって軽蔑の行為であり、それを奨励しているのが、おそらくエイズ活動家の運動のもつもっとも抑制されない姿勢ということになろう。しかし、同様にこれまでのところエイズにもっとも手ひどく襲われてきたゲイ人口に属するストーンウォール世代の多数の者にとって、安全なセックスは、軽蔑というよりむしろあきらめ、成就された哀悼というよりむしろメランコリーであると感じられるのかもしれない。私は、このような性向に病理学上の何かが存在すると示唆したいわけではないが、とりわけその原因の文脈で考えてみるとすれぱ、フロイトが記述するように、その性向にはメランコリーの数多くの特徴が実際に含まれているのだ。「メランコリーを発生させる状況は、たいていの場合、死者による喪失感のような明らかな事例の範囲を超えており、精神的に傷つけられたり痛手を蒙ったり無視されたり認められなかったり失望させられたりと、すでに存在している両価感情を強めるあらゆる状況を含んでいる」とフロイトは書く。フロイトの理論は対象関係に関するものだが、こうした状況を社会的領域に移して考えれぱ、エイズ危機のさなか、われわれゲイの男性の状況を、自己否認と自己懐疑の点できわめて完璧に説明してくれる理論になる。フロイトの分析では、メランコリーと哀悼は、「自尊心の低下」というただ一つの特徴において異なっている。つまり「哀悼において、世界は不毛で空虚になるが、メランコリーにおいて〔不毛で空虚になるのは〕自我そのものである」。そして自尊心のこうした胆下は、「圧倒的に道徳上のもの」であり「道徳的根拠に基づく自我への不満である」とフロイトは主張する。「患者は、自分の自我を価値のない、努力不能で道徳的に卑しむべきものだと説明し、自責し自已卑下し、追放され叱責されたいと願う」。「自已批判を募らせるなかで、彼は自分のことを、卑しい、自已中心的な、不誠実な、独立心に欠けた者とみなし、これまでのその存在の唯一の目的は、自分自身の本質的弱さを隠すところにあったのだとみなすようになる」。それ以上に、メランコリーを患った者は「自分に起こった変化は何であれ認識せず、過去のことにまで自己批判を及ぽし、これまでに一度も今よりましであったためしはないと言い張る」。このようを道徳的観点からの自己卑下は、エイズに対するある種のゲイの男性たちの反応のなかに、きわめて頻繁すぎる程にみられるものだ----どうして頻繁すぎる程にかと言えぱ、これまでにメディアが、その種のゲイの男性たちをわれわれのスポークスマンとして好んで選ぴ、彼らに発言させてきたからである。ランディ・シルツのことがすぐに心に浮かんでくる。私は別のところで彼とは縁を切ったのだが、次のような文脈で彼のことに言及をしておく価値はある。つまり、彼はモントリオールの第5回国際エイズ会議の閉会式で挨拶をすべくわれわれの代表に選ぱれていながら、会議に出席した国際エイズ活動家の戦闘的姿勢を攻撃することで、出催者たちの側に利を与えてしまったのであった。しかし、最近の例は、もっと卑屈である。『大舞踏会のあとで』という書名は、シルツの『そしてバンドは演奏し続けた』[邦訳書題名『そしてエイズは蔓延した』]の統篇にはもってこいの題名であリ、また事実、『大舞踏会のあとで』は『そしてパンドは演奏し統けた』を典拠として賛意をこめ引用しているが、『そしてバンドは演奏し統けた』の「0号患者」の章は、『大舞踏会のあとで』ではその不幸な役割を引き続き演じている。ダプルディ社によって刊行され、見返し遊ぴのところに「90年代ゲイ宣言」としるされたこの本は、ハーヴァードで教育を受けた二人の社会学者の手になる卑劣な著書である。二人のうち一人は、IQの高い人たちのための適性検査を現在開発中であり、もう一人は、「サイレント・マジョリティのゲイたち」と二人によって呼ぱれた人たちのための「積極的イメージ」作りを専門としているマジソン街のPRコンサルタントである。社会生物学の最新のトレンドから知識を与えられたマーシャル・カークとハンター・マドセンは、同性愛恐怖症----彼らは、この呼び方の代わりに同性愛憎悪と呼ぷことを好み、その結果、同性愛恐怖症のもつ無意識の暴力を打ち消してしまうのだが---を撲滅するためのプログラムを考案した。彼らの提案は、差異の否定を基本とするメディア・キャンペーンに焦点を含わせる。「まず手始めには、クアーズ・ビールのコマーシャルをじっくり見るのがよろしかろう」と彼らは提案する。しかしクアーズの宣伝を写しとることで、「積極的イメージ」の創造が終わるわけではない。われわれは「自分たちの行動をこざっぱり」させなけれぱならない、と彼らは言うのである。そして、そのイメージにふさわしい生き方をしなければならないと言うのだ。このことは、われわれの共同体から「『周縁的』ゲイ集団」---女装同性愛者、急進的同性愛者、肛門性交愛好家、男役のレズピアンやその他の雑多な屑扱いされている人々を一掃することを意味する。明らかに、この本は、不安の徴候としてのみ深刻に受け取ることができる---つまり、ゲイ文化への激しい非難の点で、フロイトが詳述するメランコリーのあらゆる際立った特徴を示しているのだ。何よりも、その非難は同時に、自己非難である。「われわれ、著者たちは、他のゲイたち同様、ここに記した数々の胸のむかつく行ないに、どの点から見ても身に覚えがある」と、ハーヴァード・ボーイたちは告白するのだ。「だからといって、そのような悪徳を痛烈に非難するわれわれの資格は減ぜられるものではなく、どちらかと言えぱ、いや増すのである」。著者たちによるゲイの男性への告発は、まったく予想しうるものである。すなわち、われわれは嘘をつき、現実を拒否し、道徳的基準を何ら持たない、われわれはナルシスティックであり、自已惑溺的、自己破壊的であり、愛することも友情を持続させることもできない、われわれは、それを公に誇示し、アルコールや薬物を乱用する、そして、われわれの共同体の指導者たちや知識人たちは、ファシストである。以下の引用は、ほんの数例にすぎない。

---われわれが都会のゲイのいかがわしい世界に初めて探査しに行ったとき、彼らには、われわれの価値硯とは異なるにしても、少なくとも何かの価値観があるものと想定していた。だが、われわれはすぐに、こうした考えを捨てた。

---社会病質者のパーソナリティーについての多くの研究者が主張するように、病的な嘘つきのうち実際、驚くほど高率の割合の者が、ゲイである。

---ゲイ・パーはセックスのコンペが行なわれる闘枝場である。人間の性質のなかでありとありゆる胸の悪くなるようなことが、おもてに出される。ここでは、見せかけの機知や陽気さがかなぐり捨てられて、ゲイたちは、一つのことしか頭にない利己的で性的な獣となってあからさまに立ち現われるのだ。

それゆえ「常人は、彼らの神話や嘘が伝えるわれわれの姿のためぱかりでなく、われわれの現実の姿のためにゲイを憎むのだ」となる。これは、同書のなかで唯一、私の同意できる箇所であり、まじめに考えるなら、この箇所は同性愛恐怖症についてのいかなる社会学的解釈も、恐怖症を説明したり緩和したりはできないことを意味しているのだと言えよう。われわれの現実の姿を記述するにあたって、カークとマドセンが同性愛恐怖症の神話に依拠したことは、いかなる場合も彼らが同性愛恐怖症を理解せず、彼らが同性愛恐怖症との完金な同一化に陥ったことを証明している。メランコリーも、同一化と取り入れの心的過程に依拠しているが、私はその点に関しては強調しないでおこう。自己憎悪がどれほど極端になっても、ゲイの男性の病理学的状況については、何であれ追及しようとする見え透いた理由には私は胸が悪くなるのだ。ひとまず私は、病的哀悼と、不完全にしか解放されなかったわれわれの過去を未熟で不道強なものとみなさざるをえない少数のゲイの男性たちの遺憾な必然とのあいだに、相似の関係を指摘するにとどめたい。しかし私としても、メランコリーについてのフロイトの最後の言葉に抗うつもりはない。今度は「自我とエス」から引用してみよう。「超自我のなかで揺れ動いているのは、言わぱ、死の本能という純粋な文化なのである」。アクト・アップ、「力の解放のためのエイズ連合」は、1987年3月、ニューヨークのゲイ&レズビアン・コミュニティ・センターでのラリー・クレイマーによる演説に応えて設立された。無理解と熱弁を結ぴつけたような彼独自の比類ない口調で、クレイマーは次のように叱責した。

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