哀悼と戦闘

エイズ実践運動の私の師、グレッグ・ポードウィツのために(1/3)

ダグラス・クリンプ/笹田直人訳

『サウス・アトランティック・クォータリー』誌の「同性愛恐怖症を排除して」と題された特集号の寄稿論文のなかで、リー・イーデルマンは、エイズ実践運動の「沈黙=死」というスローガンに対して、デリダ流の脱構築の教えを適用している。イーデルマンは、われわれのスローガンは煽動的レトリックに対抗して団結せんがための事実の言説を呼ぴ求めているのだと主張する一方で、沈黙=死という等式は知らず知らずのうちに修辞としての字義性を生産してしまい、そのことによって沈黙=死のスローガンは西欧的言説の二項対立的論理にイデオロギー的に巻きこまれていることが暴露されるのだ、と結論づけた。

沈黙=死のようなスローガンにおいて、守勢にまわりながら字義性に訴えようとすることは、信頼できる知の避難所を求める必要性と欲望とに関する修辞としての宇義性を生み出さざるをえないからこそ、そのような言説はつねに必然的に危険なほどに汚染された弁明となってしまうのである---デリダのいうメタファーの論理によって汚染された結果、修辞性を超えた自然な言説または字義通りの言説を成し遂げようとする企ては、物象化された(かつ脅迫された)同一性という胡散くさいイデオロギーを再生産してしまい、対抗するはずの反動的な医療・政治的言説を刻印せざるをえなくなるのだ。こうして、沈黙=死という論証的論理は、字義性と修辞性、固有性と非固有性、内部と外部という、それぞれイデオロギー的に動機づけられた混乱に貢献してしまうことになる。そしてその過程で、人体に「自已と非一自己」の区別をさせているメカニズムを攻撃する免疫不全ヴィールスという生物学が想起されることになる。

私は、「沈黙は死なり」という「テクスト」に対するイーデルマンの脱構築が間違っているとは必ずしも思わないが、沈黙=死という表象がわれわれの運動に対してどのように機能しているかについて、彼はほとんど何らの認識も持っていないように思える。第一に、それは次のように作用する紛れもない表象に他ならない一つまり、ポスター、プラカード、ボタン、ステッカー、Tシャツにしるされた人目をひくイメージなのであり、何よりもグラフィック・アートとして訴えかけるものなのである。それゆえロゴスの特権付与などにはほとんどなじまないものなのだ。第二に、それは諸々の事実の言説を求めているのではなく、論争の闘わされた諸事実を論証する場の内部での直接行動、組織化された戦闘的要求の宣言なのである。そして最後に、誰に宛てたものかという間題がある。というのも、イーデルマンの文学理論の適用は、それがただおもしろそうだと思った学間の世界の人間以外の誰に宛てて意図されたものだというのか。沈黙=死は過去において生産され、現在は政治的集団の闘争に採用され、エイズ活動家たちの共同体にはおのおの全く異なった諸間題をつきつけている。沈黙=死というこの表象を字義通りに解釈すれぱ、イーデルマンのテクスト分析では気づかれていないある危険を惹き起こすことになる。つまり、われわれ自身は、紛れもなく死の間題に関しては、死がどれほど深くわれわれに影響を与えるかの間題に関しては、黙してしまうということだ。私にも、自己と非-自己の区分について、内部と外部の混乱について、何ごとか言うべきことはある。しかし、私がいませき立てられるように書いているのは、われわれのため、エイズ活動家の共同体のために他ならない。哀悼と闘争について書くことは、私にとって必要であると同時に困難なことである。なぜなら哀悼がわれわれを悩ますことを私はこれまでに見てきたからである。「われわれ」と言うとき、私はエイズに直面する同性愛の男性を意味している。もちろんエイズに直面する同性愛の男性のみにとどまらない、と言うべきかもしれないが、しかし、われわれは特定の困難、独特な場合が多々ある困難に直面しているがゆえに、私が彼らに何がしかの親密感を覚えるがゆえに、ここでは同性愛の男性だけに限定して書くつもりである。この論文は、私の仲間の活動家たち友人たちのために書かれたものである。彼らも自分たちの行動、提言、激励によってこの論文を活気づけてくれたのであり、そのなかには多数の女性も含まれる。これから披歴するように、私自身も哀悼と戦闘の葛藤の渦中にあり、論文の至らざるところ、それは何がしかの弁明になるかもしれない。それでは、エイズによる死ではないが、私自身の両価感情をひきおこした哀悼についての逸話から始めよう。1977年、アイダホの実家に滞在中、思いもかけず父が死んだ’彼と私とは、緊張をはらんでますます疎遠になる関係にあった。そして私は、彼の死に対して悲しみをあらわすことができなかった。葬式のあと、私は自らが計画した展覧会開会のためにニューヨークに戻り、通常の生活を再開した。しかし数週間のうちに、ある徴候があらわれ、それはこんにちに至るまで私の鼻の付近に傷となって残っている。左の涙管がひどい感染を起こし、その結果、膿瘍がゴルフボールほどの大きさまで腫れ上がり、左目を塞いでしまい、私の顔は金く醜くなってしまった。膿瘍が遂に破れると、いやな臭いの膿汁がまるで毒の涙のように私の頬を流れおちたのである。それ以来、私は、無意識の力を疑ったことはなかった。そして、哀悼が敬意の払われるぺき心的過程であることを疑ったこともなかったし、今もそうである。しかしながら多くのエイズ活動家たちにとって、哀悼は敬意の払われるものではなく、疑念がいだかれるものである。は政治的集団の闘争に採用され、エイズ活動家たちの共同体にはおのおの全く異なった諸間題をつきつけている。沈黙=死というこの表象を字義通りに解釈すれぱ、イーデルマンのテクスト分析では気づかれていないある危険を惹き起こすことになる。つまり、われわれ自身は、紛れもなく死の間題に関しては、死がどれほど深くわれわれに影響を与えるかの間題に関しては、黙してしまうということだ。私にも、自己と非-自己の区分について、内部と外部の混乱について、何ごとか言うべきことはある。しかし、私がいませき立てられるように書いているのは、われわれのため、エイズ活動家の共同体のために他ならない。哀悼と闘争について書くことは、私にとって必要であると同時に困難なことである。なぜなら哀悼がわれわれを悩ますことを私はこれまでに見てきたからである。「われわれ」と言うとき、私はエイズに直面する同性愛の男性を意味している。もちろんエイズに直面する同性愛の男性のみにとどまらない、と言うべきかもしれないが、しかし、われわれは特定の困難、独特な場合が多々ある困難に直面しているがゆえに、私が彼らに何がしかの親密感を覚えるがゆえに、ここでは同性愛の男性だけに限定して書くつもりである。この論文は、私の仲間の活動家たち友人たちのために書かれたものである。彼らも自分たちの行動、提言、激励によってこの論文を活気づけてくれたのであり、そのなかには多数の女性も含まれる。これから披歴するように、私自身も哀悼と戦闘の葛藤の渦中にあり、論文の至らざるところ、それは何がしかの弁明になるかもしれない。それでは、エイズによる死ではないが、私自身の両価感情をひきおこした哀悼についての逸話から始めよう。1977年、アイダホの実家に滞在中、思いもかけず父が死んだ’彼と私とは、緊張をはらんでますます疎遠になる関係にあった。そして私は、彼の死に対して悲しみをあらわすことができなかった。葬式のあと、私は自らが計画した展覧会開会のためにニューヨークに戻り、通常の生活を再開した。しかし数週間のうちに、ある徴候があらわれ、それはこんにちに至るまで私の鼻の付近に傷となって残っている。左の涙管がひどい感染を起こし、その結果、膿瘍がゴルフボールほどの大きさまで腫れ上が})、左目を塞いでしまい、私の顔は金く醜くなってしまった。膿瘍が遂に破れると、いやな臭いの膿汁がまるで毒の涙のように私の頬を流れおちたのである。それ以来、私は、無意識の力を疑ったことはなかった。そして、哀悼が敬意の払われるぺき心的過程であることを疑ったこともなかったし、今もそうである。しかしながら多くのエイズ活動家たちにとって、哀悼は敬意の払われるものではなく、疑念がいだかれるものである。おける精神的構成要素を包含するにすぎないように思われる。というのも、窮極的にはどちらの叫びも、ライヒによってフロイトに提起された間い、つまり「人間の悲惨はどこからやって来るか」に対して明確な解答が与えられるかどうかに存立がかかっているからである。哀悼に対して活動家が敵意を抱くかどうかは、一つには、エイズがどのように解釈されるか、というよりも、次のどちらが強調されるのか、つまりエイズ危機は自然な偶然の破局一今ここで突如として起こったに過ぎない病いの症候群一とみなされるのか、それとも重大な政治的怠慢か不正の結果として起こるべくして起こされた疫病であるとみなされるのか、そのどちらが強調されるのかによって決まるのである。しかし、ただ目下のところは、大きな方の政治的間題は脇に置いて、私としては実践主義と哀悼の内的対立という問題に専念したい。この二つが両立不可能であることは、フロイトによる哀悼の作用一フロイトは「自我の没入」とよぷ一についての記述のなかで、充分に明らかにされている。「哀悼とメランコリ一」で、フロイトは「深い哀悼は、死者への思いと関わリのないあらゆる活動的努力から逃避しようとすることを伴う。自我におけるこのような抑制と制限は、哀悼に対する排他的献身---他の目的や関心事には全く専念しない---の表現であることが、容易に理解される」と書いた。このような心的過程についてのフロイトの解釈はよく知られているが、その排他的特質を強調するために、以下に引用したい。

現実検討(Realitatsprufung)によって愛する対象がもはや存在しないことが分かり、すべてのリビドーはその対象との結ぴつきから離れることを余儀なくされるが、これにたいし当然の反抗が生ずる一よく見られることだが、人間はリビドーの向きを変えたがらず、かわりのものが、もう誘っているというのにそれでも変えないものである。この反抗は強いため、現実から顔をそむけることになり、幻覚的な願望精神病になって対象を固執することになる。正常であることは、現実尊重の勝利をまもりぬくことであるが、その使命はすぐには果たされない。それは時間と充当エネルギーをたくさん消費しながら、ひとつひとつ遂行してゆくのであって、そのあいだ、失われた対象は心の中に存在しつづける。リビドーが結ぱれている個々の対象の追想と期待に心をうぱわれ、過度に充当され、リビドーの解放もそこに実現されるのである。(井村恒郎訳)

エイズの時代における哀悼についての重要な論文---それは、ホイットマンの「葬送太鼓」詩篇の読みを始動させるものだが一のなかで、マイケル・ムーンは、哀悼に対するフロイトの見解はゲイの人々には、ある困難を示すもの、われわれゲイにはそもそも全く認められていない正常態への復帰をフロイトの見解が約東している限りにおいての困難を示すものであると論じる。「レズビアンとしてゲイとして」とムーンは続けて次のように書く。

われわれのうちの殆どの者が、人生におけるさまざまな瀬戸際で、「正常態」から分類上、排除された経験をもっているのである。これまでに経験してきた如く、われわれの殆どが、おのれの個人的闘争と集団的闘争のどちらにおいても、要求を認識させ、認めさせ、受け入犯させ、時に成就させねぱならないだけに、フロイト流の哀悼のモデルは当然のこと根本的に常態化を説くモデルに見えてしまうし、それゆえに何かが欠けているモデルに見えてしまう。哀悼のプロセスを豊かにして、理解し易いものにしてくれるよりもむしろ、そのプロセスを縮小して、そのありうべき意昧を排除するモデルのように思えてしまうのだ。

多分、フロイトに対して心安らかな反応を示すことのできるゲイやレズビアンはいないだろう。しかし、それにもかかわらず、われわれは次のような識別をつねになしうるように心を砕かねぱならない。つまり、常態化せんとする熱望、適応への熱望は、フロイトに帰せられるのではなく、フロイトのあとに出現した「自我中心主義的」修整主義者たちに帰せられるべきであるということ。ゲイたちの受けている抑圧の大半は、修整主義者たちに原因があるからである。だからといって、フロイトに常態という見方がなかったと言うわけではない。ただ、誰にとってであれ、常態を完全に成就しうるようなものはない、という見解もまたフロイトにはあったということだけは言えるのである。フロイトは実際、哀悼とは「人生に対する通常の態度からの重大な逸脱」であると言及しているが、しかし、この文脈での「通常の態度」が何を意味するのかは、哀悼の作用が終わったあとにわれわれが回帰する状態についてのフロイトの記述を読めぱ容易に理解しうる。それは、ごく簡単に言えぱ、「現実尊重が勝利を収め」、その結果、r自我は再ぴ自由になり、抑制されなくなる」ことである。だから、他の可能性を求めて「哀悼とメランコリー」の彼方---ムーンは、フェティシズムを持ち出すが、しかしそれは、死者とさえ結ぱれるわれわれのホモエロティクな諸関係を拡大せしめる意識的手段と化されたフェティシズムであり、1927年のフロイトの解釈から救出してきたフェティシズムに他ならない---を見るよりはむしろ、私としては7ロイトの初期のテクストにとどまり、われわれの多数が現に経験しているさまざまな葛藤と関連させながら、そのテクストを読んでいきたい。まず第一に、二つの予備的注意、「哀悼とメランコリー」は、所謂哀悼の理論ではなく、病理学の哀悼、すなわちメランコリ一の理論なのだということ。それゆえ、哀悼に関するフロイトの見解は、単に習慣的知識の繰り返しにすぎない、哀悼のダイナミックなプロセスを記述する以上のものではない、とムーンが主張したのは正しい。第二に、フロイトはわれわれの悲嘆にみちた儀式、追悼集会、キャンドルライト・マーチについては、ほとんど何も語ることはできない。われわれの共同社会の哀悼、おそらくはネームズ・プロジェクト・キルト[エイズの犠牲者の名前を巨大なキルトに縫い込むプロジェクト]だけが哀悼の精神作用のなにがしかを示すことになろう。失われた対象を連想させる思い出の種を縫い込むことによって、それぞれの個人のパネルが、愛しき者と結合された希望と記憶を過剰備給し分離するという作用を象徴する限りにおいて。しかし、このようにしばしぱ共有される活動に反するものとして、哀悼というものは、フロイトにとって孤独な企てである。そして、われわれの悩みが始まるのも、ここにおいてである。なぜなら、最初からわれわれの私的奮闘には、すでに社会からの禁止があるからである。『欲望の規制』の冒頭で、サイモン・ワトニィは、われわれの多くがこれまでに経験してきたのと同様の葬儀について詳述している。それは、。エイズについての本を書くことを「そのとき、そこで」決意させた出来事であつた。

(ブルーノの)葬式は、ロンドン郊外の古いノルマン風の教会で執り行なわれた。エイズについては、何ら言及されなかった。ブルーノは、明示されないある病いのために雄々しく死んだのだ。およそ40名ほどの参列者のなかで、私自身を除いて、ゲイが二人おり、両者ともに彼の恋人であった。彼らは、両親は別として、参列している他の誰よりも、はるかにブルーノと親密であった。しかし、彼らの悲しみは、男らしさの容認される範囲内で抑制されなければならなかったのである。われわれ自身の暮らす郊外社会の息の詰まりそうを生活と、すばらしく肯定的で魅惑的人生を送るゲイとしてブルーノが実際に生活していた世界の認識とのあいだにある差異のアイロニーは、ほとんど耐えがたいものであった。

ワトニィのこの逸話は、論争を喚起すべく書くことを意図しているがゆえに、哀悼が一体どうなったのかについて示唆を与えてもいる。社会が偽善を要求したときに三人のゲイたちは、ただ悲嘆を隠さねぱならなかっただけではなかった。同時に、ゲイとしてのプルーノに関する彼らの愛情をこめた記憶は、そのため彼らにも付随する社会的非難と結びつけられてしまうのだ。そのあと、こうした記憶がよぴおこされると、過剰備給は当然ながら防衛を受けることになる。それは、ブルーノの世界を、通常抱かれる軽蔑の念によって損われぬように守り抜く必要性のためである。r私の友人の本名は、ブルーノではなかった」さらにワトニィは続けて書く。

私は、彼の父親から彼の本名を使わないでほしいと頼まれた。だから、匿名性は完璧であった。しかし、エイズについての噂、実のない空言がまた薪たな「犠牲者」を作り出すのである。私の主題は、紛れもなくこの空言、エイズの間題に関して、この社会のあらゆる体制に響きわたっているさまざまな騒音に他ならないのである。

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