今泉省彦
絵描き共の変てこりんなあれこれの前説6-11

今泉省彦 

読売アンパンは予供の描いた絵まで並んでお祭りのようだった
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説6)

仁王立ち倶楽部@CHRIS007(1985年12月発売)

 読売新聞社主催の日本アンデパンダン展は、著名な抽象画の大家の大きな絵の隣に、三橋美智也とか正田美智子を、写真を見ながら描いたような鉛筆画が並んでいたりして、無闇に楽しかった。この雰囲気については、赤瀬川原平の著書『いまやアクションあるのみ!〈読売アンデパンダンという現象−〉』(筑摩書房刊)に活写されているから、一読をお推めしたい。但し、例によって赤瀬川の記述には若干事実関係の誤りがある。私の知る範囲については逐次訂正しようと思う。

 東京都美術館は設立以来、日本では一番大きな展覧会場として、しかも中央なのであった。大きな美術団体に独占されていて、ここでは各美術団体の権威ある審査を通らなければ、絵が並ばないのである。それが、出品料を払いさえすれば、誰でも絵が並べられるというのだから、アマチュア絵描きが喜んだのは当然であった。子供の描いた絵まで並んだのである。お祭りのような楽しさがあるから、画学生が興奮したのも無理はない。ようしやってやれといった按配で、でたらめは回を追うごとにエスカレートしていった。それは、潮を引くように画壇の大家達が出品しなくなるのと反比例していた。つまり旧態依然たる絵の描き方では、若者のでたらめの迫力には、会場のなかでの見ばえにおいてかなわないのである。このようにして、日本美術会の日本アンデパンダン展でも、読売新聞社の日本アンデパンダン展でも、既成画壇の大家達は、若者やど素人を含んだ、いわば一種コミューンのごとき会場で、新たな地平を拓く機会を捨てて、元の古巣に戻ってしまったのであった。

 アンデパンダン展というものが、ひょっとすると、旧弊な日本画壇に地割れを起させるかも知れなかったのに、事態はそれを素通リして、もっと先に行ってしまった。

 ともあれ、若者達は勢に乗って、あいつがあんなことをやるのか、そんならあの上を越さなきゃ、といった風で、展覧会の常識をどんどんやぶり始めたのが1960年代であった。その連中の作品が、いま各地の美術館に収蔵されはじめているのだから、彼等は間違ってはいなかったのであろう。とはいえ、当時のがらくたに類した作品群は、もうほとんど残っていない。貧乏な絵描き達には、がらくた作品を収めて置くスペースなんか用意出来っこないから、廃品回収所から拾い集めて作られた作品群は、会期が終ると、元の廃品置場に戻っていくのであった。こうしてエスカレートしていくと、当然のことながら、展覧会主催者や美術館側が眉をひそめるようなものが出品されてくる。

 あるグループは、仲間で金を出し合って、大型トラックで作品を運び込んだ。荷くずれしないように、作品同志でぶつかり合って壊れてしまわないように、ぼろ毛布、ぼろ布、麻袋、荒縄などで厳重に梱包してくるわけだけど、出品手続を済ませて会場に運び込むとなると、解梱するから、梱包材料はとたんに邪魔になる、トラックに積んで持ち帰るのも面倒だ。その山を跳めていて、この方が運び込んだ皆の作品より芸術っぽいということになった。よし、これも出品してしまえ、ごみの始末を考えなくってすむではないか、一挙両得である。しかしながら、これは受付でこんたんを見抜かれてしまった。

 その次は風呂桶である。拾ってきた風呂桶に、ほっかむりをした人形を入れて、その手に本物の出刃包丁を持たせてある。『そろそろ出掛けようか』というのが作品のタイトルであった。これは受付は通過したのだが、展覧会の初日に当の作者が会場に行ってみたら、どこにも並んでいない。探し回ったら階段の下に押し込んであった。ひっぱり出して会場に並べて置いて、次の日に行ったらまたなくなっていた。こんなことを何回か繰返して、当人はつくづく嫌気がさして会場に来るのをやめにしてしまった。こんなトラブルを全部書いたって仕方がない、話をつなげる上で必要なケースを3つばかり紹介しょう。

 会場の一室ほぼ半分ほどの面積に白布が敷かれてあり、その上を踏んで歩くと下から色が浸み出る作品があって、それが撤去された。床を汚すのが理由であろう。

 天井からぶらさげる作品も、天井からでは駄目だということで計画変更をさせられている。これはフーコー振子だから、下に置いたのではどうにもならないのだが、当人はあきらめて、床に置いたようだ。

 それから写真家の吉岡康弘である。初日に美術館長が会場を見て回っていた。館長は吉岡の作品の前で足を止めて、「これはまずい」といった。それで作品は撤去されてしまったのだが、これはヴァーギナを接写拡大したものなのだそうである。これは私も見ているが、なにを写したものか判らなかった。受付も、展示担当者も気付かなかったのだから、この美術館長は大した通人だといわなければならない。私なんぞ、いま見ても、どこがどうで、どうしてこれがそうなのか判らない。学のあるひとは違うなあと、つくづく思うばかりである。

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 展示拒否は読売アンパンばかりではなかった。日本美術会のアンパンにもあって、これも又、なんとも恥しいかぎりであった。

 彫刻作品がひとつ猥褻だということで拒否されていて、これは日本美術会の会員だったので、憤然脱会したということがあったそうだが、これは見ていない。

 もうひとつは私も見た。60×40センチくらいの平面作品で、出品受付の際には新聞紙につつまれており、この新聞包装は展示後観客によって破られると付記されていた。展示責任者はこの但書を無視して包装を破った。中から出てきたものはパネル上部に桃色パンティが貼ってあリ、そのパンティの局部該当の部分には十二弁の菊の紋章が付いていた。そして下には天皇一家の写真が並ぺられ、その周囲にうじ虫様の物が取り付けられてあった。これは問題だというわけで、展示貴任者は居合せた仲間と相談して、ともかく出品者を呼び出すことにして電報を打ったのだそうだ。ところが電報は宛先人不明で返ってきてしまった。それでこの作品は展示保留のまま、展覧会事務室に放置されっばなしで会期を終了したのであった。但しこれは後に述べる都美術館の陳列作品規格基準が出された後の出来事である。

 読者は他愛のないことだと思うだろうが、この読売新聞社社・日本美術会主催の両アンデパンダン展に起きた受付拒否・展示拒否、あるいは作品撤去は、作品の良し悪しではない重大な問題だと私には思えた。

 果して東京都美術館側は、借館団体会議を召集して、陳列作品規格基準案を提示した。それは不快な音を立てるもの、悪臭を発したリ、腐敗の恐れのあるもの、刃物等ひとに危害を加える恐れのあるもの、観客に不快感を与えるもの、公衆衛生法規に触れる恐れのあるもの、床面を汚すようなもの、天井から釣リ下げるもの、などは展示してもらっては困るという内容であった。


今泉省彦 

高松・赤瀬川・中西を手持ちのカードにして読売アンパンに死亡宣告を!
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説7)

仁王立ち倶楽部@CHRIS008(1986年1月発売)

 東京都美術館が1962年に、ここを会場として展覧会を開催している各団体の代表者を集めて、同意を得ようとしたのは、美術館側が陳列不適当と判断した作品については当該展覧会開催団体に申し入れて、協議の上展示品を撤去をするということについてであった。ところがこの種のトラプルで手を焼くのはアンデパンダン型式の展覧会をやっている団体だけであって、事前に作品審査をやっている団体にはおよそ関係がないわけだから、これに異論を称えるのは審査制の美術団体ではなかった。都側の出してきた事例はことごとく芸術の名に値いしない非常識なケースであって、締め出して当然なのである。この都側の提案に反対したのは『ニッポン展』という、アンデパンダン方式の展覧会をやっていた前衛美術会だけだったと私は聞いている。従ってこの提案は借館団体会議で承認されてしまったのである。

 主催者が陳列するのはどんなものかと首をひねるような作品は、読売新聞社主催の日本アンデパンダン展に集中しており、これらを受付拒否するのは無審査の絶対矛盾だから、拒否の責任を都美術館側に背負わせる方が都合がいいにきまっている。証拠があるわけではないが、私は読売側が都美術館と協議してこの案を作ったと判断した。美術評論家連盟はこの措置に対する反対声明を発表した。反対理由は、芸術判断を都の役人がやることの危険性についてだったと記億しているが、私もその点について同感であった。しかしそれ以上のことはしなかった。

 ぶんむくれにむくれて、私は読売アンパン常連出品者宛にアッピールを郵送した。以下全文を示す。《アンデパンダン展に喪章を送れ、又は君等美術館から溢れ出よ》というタイトルである。

「アンデパンダン展とはなにか、こういう簡明率直な問いが口唇をついて出るや否や、早くもはなはだシニカルな、苦い笑いとして唇の群がひそかにゆがみ、さざなみとなってひたひたと周辺をひたすかに思われるのであって、現今の両アンデパンダン展はもはや、それが本来荷いもつべき当然の役割からはるかに遠く、あたかも温室に栽培される寒気にひよわい熱帯植物、又は保温水槽にひらひらとはでやかな熱帯魚のための、外気を遮断する保護装置となり果てたのではないかという感想を禁じ得ないのである。読売アンデパンダン展は5人の展示拒否を受け、それを認めた者を出し、日本美術会のアンデパンダン展も又、聞く処によると、1人の彫刻家がその作品の猥褻性において非難を受け、慣然脱会するという事件があったということである。言う迄もなくアンデパンダン展とは対画壇行動なのであって、それが反社会性を帯びるに至ってその命運を閉じるのである。読売のアンデパンダン展は遂におのずからそれをおびきよせることによって壁の前に立ち、日本美術会のそれは設立の当初からこの二つのファクターを混在させることによって未成熱のまま、遂にどちらをも無力にしてしまうことで意味を失なおうとしているのである。中原佑介によると、読売アンテパンダン展の展示拒否問題について滝口修造と勝尾伸之しか昨年は発言しておらずこれはざまあみろという類の問題ではないそうであるが、その当の中原佑介は一体なにをしていたかという疑問はともかく、発言したとはいいながら滝口修造は民主主義のために美術家の良識に訴えるところの、読売の番頭じみたお説教をたれたという噂であるし、勝尾伸之も又、斜にかまえてはなはだ判然としない意見を示していたようである。

 アンデパンダン展のマクシマムは反画壇であり、直接的には審査公募展との対概念であるということは『形象』7号が既に触れた。対概念としてある処の無審査公募に展示拒否があるということは、明白な撞着であり、のみならず自己否定であって、これを指してどうしてアンデパンダン展と言えようか。まず私はアンデパンダン展の死を宣告し、ついで1963年の読売アンデパンダン展とは、それがみずから演ずる処の告別式であると言おう。

 アンデパンダン展出品者諸氏、氏等はこの既に息断えたアンデパンダン展を喪章で飾りたまえ、音の出る美術は美術ではないとほざくうすのろの耳に音楽家諸氏、君等は耳を聾する葬送の曲を出品し、その耳をつんぼにしてしまえ、生半可な聴える耳がなければ世界はうすのろの楽園に違いあるまい。そしてアンテパンダン展に関心を持つ人達は黒いリボンを胸につけて、この告別式に参加せられよ。こうして、あえてこの温室を打ち割って、君等が美術館からあふれ出たとき、君等は反社会行動者として日本の美術運動に別の局面を与えるかも知れないのだ」

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 読売新聞社主催第15回日本アンデパンダン展は、1963年3月2日土曜が開幕であった。若者が何人か喪章をつけて会場をうろついていた。第1室には赤瀬川原平の作品があった。千円札を畳ほどの大きさに拡大模写したものを真中にして、両脇にはキャンバスなら100号くらいの大きさの、ぼこぼこにふくらんだものをクラフト紙で包んで麻紐できちっとしばった作品であった。中西夏之と高松次郎のは一番奥の部屋である。中西のは『洗濯バサミは撹拌行動を主張する』というタイトルで30号くらいのキャンバス6枚牧、シャツ・シュミーズ・ズボン下、昔使われていた煙草小売店用のガラス壷などに、アルミの洗濯バサミを群生させたもので、その下には同じ洗濯バサミが無闇に置かれていた。中西はこのときが初めてで最後の読売アンパン出品である。高松は山手線のときと同じぽろ布を纏って、こわれたおもちゃやらなにやらのがらくたをくくりつけて真黒に塗ったもので、長さは10メートルもあっただろうか、壁面にカーテン風につるした白い布の下から出てきてとぐろを巻いていた。『カーテンに関する反実在性について』というタイトルであった。

 中西の作品の下に置かれた洗濯バサミは少しずつ会場のあちらこちらにちらばってはりついていた。中西は友人達にひとの作品にはつけないように頼んでいたが、面白いもんだから、ひとの作品にもくっつき始めていた。

 私はこの3人の出品作品を見て、しめたと思った。中西も高松も山手線ひと回りのイベントの頃からカオスということを考えていた。赤瀬川はこの読売アンパンの直前に個展をやっていて、その案内状の裏、表は一色刷凸版の千円礼であった。そして雑誌『形象』8号にとじ込むための試刷りがこのアンパンの会期中に出来上ってくる予定であった。あちこちにちらばっていく洗濯バサミは、ついでに赤瀬川の一色刷原寸大の千円札も同時にくわえ込んでいげばいいのである。高松の紐の作品は伸びていって上野駅に達し、レールによって日本全土につながるのが運命でなけれはならない。他の出品者も都美術館を刺激するようなことをやるだろうが、私の手持ちのカードはこの3人で充分であった、なにしろ私は読売新聞社主催の日本アンデパンダン展をこの回かぎりでつぶすつもりなのだ。


今泉省彦 

読売アンパンで高松の紐を上野駅まで伸ばしたのは私だ
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説8)

仁王立ち倶楽部009(1986年3月発売)

 東京都美術館が改築されるのが1975年頃だから、1963年の都美術館といまのとでは随分違う。場所もいまの美術館の北側で、正面入口は広い石段を二階迄昇ったところにあった。美術館としての構造は単純明解で、いまのものより良かった。

 それはともかく、第15回読売新聞社主催日本アンデパンダン展の初日に行った私は、会場で高松次郎をつかまえて、彼の出品作品は紐の必然として伸びて行かなければならず、それは当然美術館をはみ出して、国鉄上野駅に達するべきであり、そのことによって紐はレールに連結し、日本全土に至るべきだと主張した。そして、それは作者とは無関係な紐の意志であるはずだと云った。それから中西夏之を見つけて実行計画の相談をした。私は身体があくのが次の日曜だから、実行日は3月10日昼頃とした。赤瀬川原平の著書『いまやアクションあるのみ!』には、この高松の作品にジョイントされたものは荒縄だと書いてあり、同じ赤瀬川の著書『東京ミキサー計画』には麻紐となっているが、このとき使ったのは荷造り紐だから、麻紐が正しい。但し誰が用意したか記憶がない。私でなければ中西なのは間違いない。

 当日約束の時刻に美術館に行ったけど、中西が見当たらずいらいらしていたことが日記に書いてあるから、荷造り紐は中西が持ってくることになっていたに違いない。私が用意したのなら、中西を待たずにさっさとやったはずなのだ。中西が来たのは3時頃だった。高松の紐の作品は10メートルほどだから、それを引きずって隣の部屋迄私が伸した。赤瀬川は前掲の二著書で誰がやったか判らないと書いているが、もう時効だろう。高松の作品の先端に荷造り紐を結ぴつけた後、美術館の入口迄紐を引っばっていったのは、いまはニューヨークにいて、糞元気な篠原有司男である。もっとも当時だって篠原はモヒカン頭で糞元気だった。それから先は中西と私でやるはずだったが、中西が面白がってひとりでやってしまった。紐は受付のおばさんの前を通り。石の階段を降りて噴水を横切り、木立に入ってくるくる回って、立ち話をしているひとの間を無理やり通り抜けたりして、上野駅公園口迄伸びて行った。

 ふたりで会場に戻って行ったら、早くも荷造り紐は高松の作品からはずされて、受付のところにわだかまっていた。それを又、ふたりでひっぱっていって高松の作品にジョイントさせてほっとしていたら高松が私を呼びに来た、面白いことになっていると云うのだ。どれどれというわけで飛んで行ったらなるほど面白いことになっていた。

 読売新聞社が惜りている会場の最後の部屋の次は休憩室になっていて、ソファーが置いてある、そこで音楽家の小杉武久が白い布袋のなかに入ってしゃがみ込んでおり、隣には私の敬愛するイベンター風倉匠が黒いトックリセーター、下半身ははだかという格好でヨーガ風の逆立ちをしていた。それだけなら別になんでもないのだが、読売新聞社の展覧会の係のひとが一所懸命小杉の頭らしいところをこずいて、やめて下さい、やめて下さいと云っていたのだ。これがおかしくなくって、なにがこの世におかしいことがあるか、読売が借りているわけでもないところで、袋のなかでもぞもぞしている奴のことなんか関係ないではないか、ひょっとすると袋のなかでもぞもぞしているのが、このなかに入っている奴にとって一番休憩になるのかもしれないではないか、それよりも隣りに逆立ちしている奴の方がよっぽど問題であって、良風美俗、法律で云えば、なんとか物陳列罪に該当するではないか、私だって逆立ちした野郎のチンポコとかキンタマだとか、ケツの穴なんか見たくもないのである。ところが係のひとは(実は名前も知っているが)チンポコ逆立ちには眼もくれずに、小杉の頭とおぼしいところを一心になってこずいていたのである。「やめて下さい、やめて下さい」と連呼しながら。

 小杉にしてみれば、袋のなかでもぞもぞしているということは、彼にとっての音楽演奏だから外からこずかれようとどうしようと、演奏が終らなければ出てくるわけにはいかない。やっと小杉が出てくると、風倉も逆立ちをやめた。係のひとはあなた方は事務室に来てくれと云った。それからのいきさつについては雑誌『形象』8号に書き、前掲の赤瀬川の書書『いまやアクションあるのみ!』に転載されているから、それを是非読んでいただきたく思う。当時私はどんなによっぱらって帰っても日記をその日のうちにつけている。状況証拠としては一番たしかだから、それを転記しておく、−−おくれて事務所に中西・高松等といけば、口論の最中にて、風倉はのこのこと行くべきにあらざりき、さんざん文句つけ、話はつかずに、仕舞いに風倉だけ美術館側に引渡すとて、染谷(読売の係のひと)の後についていく、讐備員のみにて、美術館側責任者不在、緒局風倉が今度やるときは連絡するといいしに染谷とびつきてけりとなる。云々とある。読売の係の染谷さんはこの事件で高松の紐のことは忘れてしまっていた。私が次に上野に行ったのは翌々日である。夕方に行くと、荷造り紐は国電上野駅公園口近くの欅の木の根元に、もうどろどろになってうず高くわだかまっていた、前々日は寒かった。そして少しばかり雪が降ったのであった。私はその次にやろうとして考えていることの打合せから、下見のために都美術館迄行ったのだ。当然タ方だから部美術館は締っている。私は芸大の前を通り、それからすぐそばの遠藤昭の家に行った。遠藤は版画家だが、雑誌『形象』の編集スタッフであった。私は版画家遠藤昭に、これからやろうとしているものの版木を彫ることを頼んでおいたのだ。また日記を引用しよう。---遠藤宅に近ずけば、遠藤扉を排して出てくる処にて余に電話なりという、川仁なりき、中西の話によれば咋日紐でけが人が出、警察が美術館に来たという。中西かわりにて電話に出、注意してくれという。篠原が上野公園をかけ廻っていたという。つまりたまたま居合せた篠原有司男が、仕方がなくって、美術館から上野駅公園口まで延ばした荷造り紐を、回収して廻って、公園口近くの欅の根元に捨てたのであった。

 こうなると傷害事件として、紐の元の作者高松次郎に警察から呼び出しが掛るかも知れない。日記によれば翌日高松に電話を入れて、対応策について意見を申し述べている。つまり警察の事情聴取があったら、私は知らないと云えと云ったのだろうと思う。

 3月15日、これは金曜日で翌日読売新聞社主 催の日本アンデパンダン展第15回展は終幕を迎える。私には最後の駄目押しでやることがふたつあった。雑誌『形象』編集同人の遠藤宅に午後8時にいくと約束した。友人の川仁宏にもすけっとを頼んで置いた。


今泉省彦 

読売アンパンの大看板に四尺ほどの棒に刷毛をつけ「死す」と大きく書いた
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説9)

仁王立ち倶楽部010(1986年4月発売)

 読売新聞社主催第15回日本アンデパンダン展で。高松次郎の紐の作品を上野駅迄伸した翌日、版画家の遠藤昭宅に寄って依頼してあった版木の彫り具合を見た。その又翌日は版木を受取っている。展覧会の最終日が3月16日の土曜日だから、その前夜にふたつのことをやろうと思っていたのだ。

 15日の夜、遠藤宅8時の約束が1時間ほど遅れた。やることの助人は、遠藤の他に川仁宏を頼んで置いたのだが、遠藤の友人でやはり画家の森田良三が話を聞いて面白がって来てくれていた。打合せを済ませると遠藤夫人も含めて総勢5人で東京都美術館に向った。

 私は四尺ほどの棒にペンキ刷毛をくくりつけたのと、油性の黒ペンキを持って出た。美術館正面石段右側に接してアンデパンダン展の大看板が立っている第15回日本アンデパンダン展と横書き一段に書かれてありその下に会期が小さく入り、主催読売新聞社と書いてあったと思う。その第15回日本アンデパンダン展と書かれてある隣りに続けて、「死す」と大きく書くのがその日の目的のひとつであった。

 打合せ通り、川仁と森田はそれぞれ別の方角に散っていった。私がペンキの蓋を開けていると、「来た来た」いってひとりが戻ってきた。パトロールの警察官のことである。そこで遠藤夫妻はアベックよろしくゆっくりと噴水の方に歩いて行った。警察官はねらい通りに遠藤夫妻につられて、噴水の方に行ってしまった。その隙に私は手早く「死す」と大きく書いた。書くためには石段と看板の二尺ほどの隙間に入らなければならない。右足を踏み込むと、ねちゃっとどぶどろみたいなものに靴が入った。嫌な感じであった。書き終えて足元を見ると、牛の糞みたいなものが拡っていた。まさかそんなところに牛が来るわけはないが、人間のうんこにしては大き過ぎる。短靴と靴下とズボンの裾迄汚れていた。匂いをかぐとやっぱりうんこのようであった。私は人を呪わば穴ふたつかとつぶやいた。警察官を上手にまいてきた連中は、私の字を実にいいとほめてくれたけど、ちっとも嬉しくなかった気持は萎てしまったがやることはまだあるのだ。

 私が遠藤に頼んだのは、葬式のときに街角に貼る指差しマークの版木なのだ。それで刷った300枚ほどをまいて歩かなければならない、10日に中西がひっばり回した紐の跡をたどって、美術館の扉のところから石段を降りて、噴水を迂回して木立に入り、上野駅公園口迄丹念に置いて歩いた。枚数が少し足りない感じであった。

 翌日は土曜で、私は昼過ぎに美術館に行った。雨であった。葬式の案内は濡れて路面に貼りついていた。看板の落書きは消されずにあった。やるときめたことはすべてやったが、はたしてどうか、心持ちむなしい感じではあった。

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 そんなことがあって、しばらくして高松次郎が逢いたいと云ってきた。何故だか忘れたが、高松と武蔵小金井で逢った。彼は武蔵小金井駅北口の東側の風景を谷内六郎の世界だなあと云って眺めていた。高松の話は、自分と中西・赤瀬川でハイ・レッド・センターという結社を作るということであった。そして、その理論面を担当して欲しいというのであった。私がどう返事をしたかはっきりしない。当時の私は充分に生意気だったから、協力はするけど、一緒にはやらねえよぐらいなことは云ったのではないかと思う。高松は軽率な男ではないから、3人の間で話が出て、合意の上で私に逢いに来たのだろうと思う。この時期の私は、それが不思議でないほど、濃密に彼等とつきあっていた。

 私の日記はいかんながら3月16日を期にとだえているから、それ以前しか分らないが、1962年から63年にかけて、ほとんど連日この3人のどれかと電話か逢うかしている。勿論雑誌『形象』の編集上の間題もある。赤瀬川の著書『東京ミキサー計画』では、雑誌『形象』の編集権を3人に渡されたと書いてあるが、そこまではしていない。君等が好きなように使っていいと云ったのが、そんな風に聞えたのかも知れない。いずれにせよ、雑誌『形象』8号の編集人は私である。この号は山手線ひと回りだったはずの行為の総括座談会残り半分と、高松の「“不在体”のために」、赤瀬川の「スパイ規約」、音楽家刀根康尚の「CRAPPING PIECE」、やはり音楽家の小杉武久「ANIMA 1-2、その他」、そして私の第15回読売アンデパンダン展でのいきさつのレポート。更には赤瀬川の作品として千円札模型、中西の作品としてポケットライブラリー、高松の作品として1メートルほどの木綿の紐がとじ込まれている。表紙は赤瀬川である。彼等は確かに編集に協力した。刀根や小杉が原稿を書いたのは彼等からの要請であることは間違いない。高松にしても、赤瀬川にしても、自分の文章が印刷されたのは始めてではなかったか。

 この号はとっくに出来ているはずだったが、なにやかやで遅れて、読売アンパンに間に合わなかった。それで第15回読売アンパンでの騒ぎについて書くことになった。赤瀬川の千円札も試刷りがうまくいかなくて、何度も色を変えて刷った。最後にクラフト紙にダークグリーンでやったのが当りで、それをはさみ込むことにした。ヤレが何枚となく出来たので、赤瀬川は都美術館の読売アンパンでばらまいたのである。この印刷の際、私は赤瀬川と印刷屋との間に立ったタイプ印書の女のひとにうそをついた。「太丈夫かしら」と云うから、警察とは問題ないとおごそかな顔をして云い切ったのだ。なにしろ雑誌『形象』は500部しか作らない。売るといったって特定少数の人の手にしか渡らない。そしていつも半数以上手元に残っていたのだ。もし使われたらその方が面白いのだし、ひょっとして問題になっても依頼人が警察の問題はないと保証したということが証言としてあれば、印刷屋は起訴されないだろうし、されても無罪に違いないと私は思っていた。なにしろ印刷しないことにはそれから先がないのだ。しかし周知の千円札裁判で印刷屋は有罪になってしまった。でもこれはまだ後の話である。

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 ハイレッドセンターは『第五次ミキサー計画』をもって旗上げした。新宿第一画廊である。赤瀬川が最初に千円札を使った案内状を作ったコラージュ展『あいまいな海』の会場である。1963年5月であった。理論面を担当するかも知れなかった私には相談がなかった。この展覧会についても、赤瀬川の『東京ミキサー計画』にくわしいから読んで欲しく思う。ともかく私はこのハイレッドセンターの旗上興行を賛成出来なかった。


今泉省彦 

誰の頭も撹拌しない『第五次ミキサー計画』はH・R・Cの見本市にすぎぬ
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説10)

仁王立ち倶楽部011(1986年5月発売)

 ハイレッドセンターは、正体不明な事件を、すぺてハイレッドセンターの仕業としてとり込むことにおいて、みずからを正体不明にしようと目録んでいた。そのことのために、私の考えと、彼等の考えとの違いが不分明になってしまったのはいなめない。あるいはそこのところでからくも私との接点があったのかも知れない。旗上げである以上、『第五次ミキサー計画』と云うのは妙なわけだが、近くは第15回読売アンデパンダン展の正体不明の出来事、山手線での出来事のみならず、草加次郎の事件までハイレッドセンターの仕業だと彼等は云いたいのである。当時、電車の網棚に爆弾が仕樹けられて爆発事件が頻発した。その犯人が草加次郎と名乗っていた。そしてこれは迷宮入りのままなのである。この草加次郎の無差別殺傷に共感するのではなく、草加次郎という無名性と、その意図の不明性が、ハイレッドセンターという匿名性と、なんのためにという目的を明示しない、あるいは持たないというところで重さなると考えたのであって、そのかぎりではこんにち、愉快犯と云われる部類に整理されるようなものであろう。事情に通じていた美術評論家中原佑介が、この第1回目の発表『第五次ミキサー計画』にあたって、「彼等は愉快な陰謀家共であって」と書いたのは、気持がすっきりするからというだけの理由で、放火したりする連中を、愉快犯と云うようになる先鞭を付けたものだと云えるし、又、ハイレッドセンターの本性をいちはやく見抜いていたとも云える。

 ところが世間を撹伴し、価値観を混乱させる。いはばカオス的状況をハイレッド現象と考える立場では「愉快な」連中では困るわけで、彼等は早速、中原の紹介文を改鼠して「彼等は不快な陰謀家である」とやった。

 彼等のやることが、ハイレッド現象の一部分であるにしても出自が絵描きだから、従来の美術状況に対する反応がヴィヴイットであり、そこの部分で匿名性も出てくるので、彼等がいかに個人名を出さなくても、ハイレッドセンターとは誰々のことかが分ってしまうということがあって、あいつ等ひょっとすると爆弾ぐらいやってのけやしないかと思わせたくもあったろう。

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 『第五次ミキサー計面』は1963年5月新宿第一画廊で開催された。コーナーを3つに分けて、高松次郎はロープや紐のたぐいを各種、壁に掛け並べていた。赤瀬川原平は終ったばかりの読売アンパン出品作品のほかに、一人用ソファーの梱包だとか、原寸大千円札一色刷りをパネルにびっちり貼って、一枚一枚を油焼きで黒光りする太いボルトで止めたもの。そして拡大千円札を作るための、模様研究データなどを並ぺた。中西夏之もやはり読売アンパンで並べたような洗濯バサミによる作品。そして床面スペースの中央に洗濯バサミ製造のケトバシが据えられていて、一回幾らだか忘れたが、けとばすと洗濯バサミがプレスされて、それと一緒に天井から鶏卵がひとつ落ちてきて、中西の卵型プラスチックオプジェにぶつかって割れる仕組みになっていた。椅子に坐ってケトパシをやっているひとの背後で、卵がガシャっと割れるのだからなかなか面白かった。

 オープニングパーティのコーナーがあって、壁に鎖でつながれたジョッキがおいてあり、展示会場にジョッキを持って入ることが出来ないようになっているのも面白かった。彼等の三人展として見るかぎり、アイデアに富んだいい展覧会であった。

 私はだけど不満だった。いやしくもハイレッドセンターである。紐はどこまでものび、物にからまり、あるいはしばり上げたりするものではないか、梱包意志とは、あらゆる物を包んでしまう考えではないのか、洗濯バサミはどんどん増殖していって、すべての物品の表面をうめつくさなければおかしいではないか。これら3つの物達は作り手の意図を越えて存在を主張するのであって、こういう物達の自己増殖性に3人は従うぺきだと思った。お互いにコーナーを分けあって、仲良く共存した屋覧会など意味がない、芸術でもへちまでもなく、事件であり、ひとを惑乱することがハイレッドセンターの意味であってみれば、誰の頭も撹拌されないこの展覧会は、ハイレッドセンターの見本市みたいなものだ。私は彼等にそう云った。そして、これは見本市として、それぞれの物品のおのずからの意志にまかせてこれらがどうなって行くかという計画を立てるべきだ。それがよしんば君等の手によって案行されるのではないとしてもだと。川仁宏も同意見であった。 

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 そしてある日、私はハイレッドセンターから一通の手紙を受けとった。私と川仁宛であった。その文面は次に掲げるものである。

「今泉省彦様 川仁宏様
作品として扱われようが、証券として扱われようが、作家から離れてしまったからにはそのものの運命にまかせるべきだという意見をもとにして、我々の作品(行動を合むか?)を要望されたあなた方に、

3.5メートルの紐 45000mlの梱包 15000ケの洗濯バサミ
但し完成品50ケ、残りはお貸しする機械とアルミ材で製造して頂く。
をお貸しいたします。

 あなた方が何の為に我々に期待し、何にそれら3種の物品を使用されるかは最早我々には関係のない事でありますが、1本の万年筆には、製作者による使法が内包されているにかかわらず、ある状況に於いては鍵をこじあける事に使用されてもいたし方ありませんし、又1枚の銅版画を、ある状況に於てトイレットペーパーとしても、そのものにとってはよろこばしいことかも知れません。しかし梱包作品を燃やして、躯を暖める為には5月の気温はあまりにも高すぎます。

 勿論あなた方はそんな無理をしてまで、我々が提示した空間からそれ等の物品をひきずり出そうとはしますまい。我々はセンターがかって使用し、ある状況を提示した「紐」「梱包」「洗濯バサミ」が、今度あなた方の作った状況の中でどんな風に泳いでいくか、遥か離れた処でみまもっておりましょう。
高松次郎 赤湖川原平 中西夏之」

 これならいいのである、いかにもハイレッドセンターらしい対処の仕方だと云うべきだ。赤瀬川原平著『東京ミキサー計画』には、「これは美術的範疇の特殊空間から一般空間への接続を示すことで、ハイレッド・センター・オブジェにあるエネルギーの自律を露骨化するため…」とある。そしてハイレッドセンターのそれからの計画はおおむねこの方向で動いて行った。


今泉省彦

H・R・Cは私と川仁に一方的に『物品贈呈式』通告してきた
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説11)

仁王立ち倶楽部012(1986年6月発売)

 ハイレッドセンターの新宿第一画廊での『第五次ミキサー計画』に対する、私と川仁宏の批判に、彼等は彼等の物品を貸与するということで応えてきた。高松次郎の紐、赤瀬川原平の個包、中西夏之の洗濯バサミである。そして、後の内科画廊、当時はまだ画廊ではなく、宮田内科クリニックの、主を亡したガランドウのスペースで、私と川仁にそれら物品を貸与する『物品贈呈式』をやると云ってきた。これはハイレッド通信という形で、あちこちに送られていた。

 私は川仁と連名ですぐに返事を書いた。

 「兄等のやりくちについて、矯激な期待を抱くものとしての吾々に、兄等が抱く、矯激、かつ、邪気にみちた期待を盛り込んだ通信とともに、川仁宅、今泉宅に、ふりわけて送達されたものは、おのおの目録にある処の数宇のピンチ・紐・梱包であって、1.8平方と、4.2平方の川仁宅、今泉宅に、別々にあるところのそれは、目録中の数個を二倍にしなければならぬのであって、日常生活上、若干のピンチと紐とは、なにかと便利であるにしても、洗濯屋じゃあるまいし、紐にしたって、ピンチにしたって、こんなに持っていたところでどうしようもないのである。ましてや梱包にいたっては、はなはだ迷惑であるといわなければならない。元来、貸与、借入は甲・乙双方の合意の上に立たなければならないのであって、この一方的に送達された物品について、吾々はハイレッドセンターとなんの契約も結んでいないのである。或る日、不意に吾々を襲ったこれらの物品に対する兄等の考えは、即ち、吾々と負けず劣らぬ狭小を容積の部屋を持つ兄等が、いささか古く、その故に嫌気のさしてきたこれらの物品の置場に困っての窮余の策ということではないかとさえ思うのである。兄等の通告によると、それは5月29日午後6時新橋宮田内科と指定されているが、こういう、吾々の日程、時間繰りを勘案しないスケジュールに従う考えを吾々は持っていない。今後、第六次ミキサー計画の名のもとに発表される写真資科その他のスキャンダルは、いかんながら吾々の貸与された物品によって、吾々がやったことではない。ハイレッドセンター構成メンバーの可能性についてある種の矯激な期待を持つこと、プロデュースの用意があること、及び兄等の物品を第三者にゆだねてみてはどうかという意見を持つことについては、ハイレッド通信にある通りである。ひとつひとつの期待、用意、意見の発する条件を勘案の外におけば、それはハイレッド通信風の行動よる依嘱になるだろうことも了解出来るところである。しかしながら兄等への矯激な期待は状況論と触れ合っているのであって、そもそも新宿第一画廊の第五次ミキサー計画はなくもがなだと吾々は考えるのである。では何故兄等がくたびれたからやりたくないといった処の第六次ミキサー計画をやれといい、それを第三者にゆだねよといったかということになるのであるが、それはそもそも、第五次ミキサー計画はギャラリー風の、第六次計画のための資科展示という片輪の生れであって、兄等のいう第六次計画と対にならなければならない運命を荷い持っているが故に、その実施時期がどうであろうと、やめてはならなかったのであり、兄等がくたびれてしまったのなら、第三者にゆだねるという方法があるではないかということであるのであり、その場合の第三者とは、吾々のように、それが半端であろうととにかく、兄等のもくろみを承知している処の第三者のことではないのである。兄等がこれらの物品に内蔵していると認めた展開力は兄等がこれらに内蔵せしめたのであって、吾々がその方程式に従うと、従うまいと、いずれにせよ、兄等の方程式に束縛されるのであって、この種のアダプテーションは吾々にとって無駄な実験であるはずである。これらの物品をゆだねるべき第三者は、兄等が内蔵せしめた展開力の方程式に予断を持たぬものでなければ、第三者の手による展開というもくろみは成立しないであろう。にもかかわらず、兄等の方法が状況を得て生きる時期があるだろうという考えは捨ててはいないのであって、そういう時期を読んだとき、吾々はあえてそのプロデュースを買って出るものである。

 貸与が何故贈呈になるのか不可解ではあったが、それはともかく、以上のように物品受領拒否の通告を、贈呈式以前にハイレッドセンターに渡したのである。しかるに物品贈呈式は強行され、しかも私達の拒否通告は握りつぶされたらしく思われる。私と川仁は当然のことながら、出席しなかったから知らないのである。

 その日、私は銀座通りに面した骨董屋の二階の銀座画廊で開かれていた、彫刻家小畠広志達のグループ展『刊』を観に行って、物品贈呈式の始まる時刻には、このグループ展のメンバーと美術評論家三木多聞とで、どこだったか、ビルの屋上のビアガーデンで生ビールを飲んでいた。新橋の宮田内科は指呼の間にあった。話がとぎれるとそっちの方に視線が行くのであった。川仁はそのときどこにいたのだろうか。

 近年日本の六〇年代美術の動向について関心がたかまってきており、私に本誌で紙面をあてがわれるのもそのあおりだと思うが、東京国立近代美術館での展観を皮切りに、東京都美術館、デュッセルドルフと続き、さらにはボンピドー美術館と、日本六〇年代美術展が立て続けに開かれる。そのたびに高松の紐、赤瀬川の梱包、中西の洗濯バサミが展観される。私は面白いから彼等に出逢うとからかうことにしている。吾々が拒否したにもかかわらず、一方的に受け取らされた物品を、吾々に無断で展示するとはけしからん、と。とはいえ彼等と仲違いしたわけではない。翌年の帝国ホテルでの『シェルタープラン』(1964年1月26〜27日)、銀座での『首都圏清掃整理促進運動』(1964月10月16日)に川仁は参加している。この首都圏清掃のときは、私に清掃団長をやってくれと云ってきた。もっともらしい顔をした奴がいた方が格恰がつくと思ったらしい。私はやあだよと云った。

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 話を少し戻さなければならない。まだハイレッドセンターが発足する前である。犯罪者同盟の大隈講堂での騒ぎがあってからしばらくたっていた。或る日、同盟の平岡正明か宮原安春か忘れてしまったが、波等の機関誌『赤い風船もしくは牝狼の夜』を、単行本風にして出したいから、相談に乗ってくれと云ってきた。この機関誌は、それまで藁半紙にガリ版刷りで、ホッチキスで簡単に止めたものだったのである。多分新宿の喫茶店でこの2人と逢って話を聞いたのだと思うが、印刷上のあれこれ、絵描き達にも協力してもらいたいこと、そして私の文章も欲しいというようなことであった。大隈講堂での美術家共の振舞いが、彼等に強烈な印象だったのだろうと思う。私はさしあたって書きたいことを持っていなかったので執筆は断ったが、印刷屋と絵描きの紹介はしてやった。それがあとで妙なことになったのである。



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