今泉省彦
絵描き共の変てこりんなあれこれの前説1-5

今泉省彦

60年安保闘争後のなしくずしの情熱の中で何かが生まれつつあった
(絵描き共の変てこりんなあれこれの前説1)

仁王立ち倶楽部@CHRIS 002(1985年6月発売)

 1959年の春は、日米安全保障条約改定反対のデモの渦のなかにあった。60年になると、先走りして革命は目睫の間にあるど言いだす評論家もいた。政府・自民党の一部で、ひそかに自衛隊出動の計画が検討されているという噂も流れた。国会議事堂は連日数万のデモ隊にとり巻かれていた。

 私は結核患者として病院にいた。そして59年の秋から手術後の患者であった。輸血による血精肝炎で衰弱しきっていた。デモ帰りの友人が見舞に来ては目撃した情景を昂奮した口調で報告していった。テレビはニュースのたびごとに反対闘争のたかまりを報道していた。どういうものか私は醒めていた。肉体の衰弱は精神の情動を許さないからなのかもしれない。私は見舞客の昂奮にとり合わなかった。「駄目だよ、うまくいきっこないよ、社共両党をシャツポに乗せて、総評が主力部隊じゃ、いくら全学連がはねても利用されるだけさ、革命なんか起るもんか」

 樺美智子が圧殺され、6月19日、安保改定案件は自然承認となった。あとには社共両党への不信と、全学連の分裂が残った。

 そんな時期に、いまはさかんに音楽とも踊りとも名状し難いイベントをやっている川仁宏が見舞に来た。最近、近所に住んでいる絵描きと知り合いになったが、そいつがお前を知っているという話であった。中西夏之である。近頃の絵描きや、美術ジャーナリズムや、画学生で、中西夏之を知らない者はいない。日本有数の絵描きになっている。彼が芸大の2年生の頃からの知り合いなのである。私は3つほど歳上であった。中西の同級でその後外国の国際賞をとりまくって、国際的な美術家になった高松次郎とは、帰りの方角が一緒だったこともあって、ずっとつき合っていたが、中西は方角違いであった。その方角違いに旧友の川仁が引越して、中西とのつき合いが始っていたのであった。

 私は退院してしばらくの問、薬をもらう外来がよいが続いた。病院は川仁のアパートの方角だったから、ついでに川仁を訪ねることが重さなった。それで、川仁の部屋で中西と再会することになった。

 50年代の画学生のほとんどは、社会主義リアリズムという考えにひきずり回されていた。要するに美術は社会主義革命に奉仕しなければならず、しかもそれは近代美術のような判り難いものではなく、民衆の判る写実的な手法で描かれなくてはならないのであった。そして判り易いだけではなく、社会の矛盾や、資本家や権力に抗する闘いの典型的な場面を描き、闘いを鼓舞するものでなければいけないのであった。いっちょうまえの絵描きにだって難しい注文の多い理屈を楯にして、評論家共がお説教をたれるのだから、ろくな絵も描けない画学生の頭がこんがらかるのは当り前であった。

 このこんがらかった脳みそを少し楽にしてくれたのが、1955年の日本共産党第六回全国協議会報告であリ、56年のソヴェト共産党書記長フルシチョフのスターリン批判であった。一方は武力闘争を含めた革命路線の清算であり、一方は一国社会主義と個人崇拝の否定であった。片方は振り上げたこぶしのおろしようがなくって自殺する何人かを出しながら、歌って踊ってマルクス・レーニンの時代を迎え、もう一方はもっと馬鹿気ていた。このスターリン批判以前は、共産党員同志の論争のあげくの悪罵は「貴様あトロツキストだ」というのであったが、56年以後は「貴様あスターリニストだ」という言葉に変った。言われた奴は黙っていないから、「そういう貴様こそスターリニストだ」と怒鳴り返えすわけで、1956年以前には共産党内部にトロツキストがうじゃうじゃいたのが、この年からはスターリニストばかりいることになった。こういうこっけいは中にいると意外に気付かないものである。

 そしてこんがらかった脳みそを完全にときほぐしてくれたのが、60年安保闘争の不成功であった。政治駆引きの筋道なんかおよびでもない単純頭の画学生なんかに、政党の複雑なたくらみが判るわけもないが、単純頭が納得するようでなければ、これは策略でもなんでもなく、ただの騙しに過ぎない。1960年代の政治手法はまだ幼稚だったのだろう。しかしながら、幸せにもそれで吾々は社会主義リアリズムというけったいな幻と完全に縁を切ることが出来たのである。とは言え、深刻な後遣症が、少くとも私には残った。

 それはなにか、社会主義リアリズムという変な帽子はぬげたけど、政治と芸術とか、社会と芸術とか、頭を熱くしていた命題迄は消えてなくなってはくれないのである。公式や教条がなくなれば、自分で考える他はない。芸術アプローチと、政治アプローチが重なってひとつであるような地点がどうもあるように思えていた。そこのあたりについて、中西と逢えば議論していたのであった。

 その年の10月に社会党委員長浅沼稲次郎が刺殺された。安保闘争の高揚に行動右翼が危機感を持ったのであろう。あくる61年2月には中央公論社長嶋中鵬二宅に右翼少年が飛び込んで、お手伝いさんが誤殺された。少年は中央公論所載の深沢七郎「風流夢譚」の内容に抗議すべく、嶋中を刺殺せんとして訪れたのであった。深沢の小説には皇居前の広場で天皇・皇后がギロチンにかかって、首がスッテンコロリンと落ちる場面があって、少年はそのことに反発したのである。

 私はこの事件にすこぶる腹を立てた。天皇は日本国憲法に、国民統合の象徴という奇妙な立場で規定された公的存在であり個人というよりは制度としてあるものであって、公的存在というものは、常に言論その他の表現によってチェックされることを嫌忌してはならぬのであるから、天皇が名誉毀損で深沢ならびに中央公論を訴えないのは当然としても、右翼諸氏が言論圧殺に乗り出すのは当を得ていないということが一点。一歩ゆずって深沢ないし嶋中が抗議の対象として選ばれるのは仕方がないとしても、全く無辜のお手伝さんが刺殺されるべき理由はないのであって、天皇をたてまえとして無辜の民が殺された以上人間に戻った天皇は一言あるべきだと思ったのである。第三点これはむしろ番外とすぺきだが私の父は職業軍人としてフィリピンの山中で戦死した。敗戦の1カ月前である。軍人としてそれは当り前だろうが、父の死は天皇に帰属するものである。親は仕方がないにしても、子供にはちっとも良くないのだから制度的にも、個人存在としても、天皇というものは私にとってあまり愉快ではなかった。いまはもう父親の死んだ齢をはるかに過ぎ、天皇が負うべき戦争の責任者であった頃の、天皇の齢も越えてしまって、さらに美濃部達吉の「天皇機関説」を天皇が支持していたらしいことや、戦争回避のために随分腐心したらしいことやら、普通な善良なひとらしいことが判ってきて、個人的な怨恨だとか、天皇そのひとに対する蟷螂の斧のようないかりはほとんど消えてしまったといっていい。なにしろ1961年のことである。いまの話ではない。私は面白くないのであった。


今泉省彦

皇居前広場にゴージャスなギロチンを!
(絵描き共の変てこりんなあれこれの前説2)

仁王立ち倶楽部@CHRIS003(1985年8月発売)

 いまの私は天命を知ってしまう齢だがら、腹を立てても、一寸不愉快な顔をするくらいで、どうっていうこともないが、30歳になったかならないかの生意気盛りだから、腹の虫の収め方を考えなければいけない。それで、深沢七郎は小説だげど、こっちは美術屋だから、ギロチンをどうしても立てたくなるのである。芸術アプローチがどうの、政治アプローチがこうのと議論しているのだから、中西夏之にこの話をしないわけにはいかない。中西は「面白いね」と言った。一緒にやろう「うん」しかしだれそれの助力が必要だなあと言うのだ。これで中西はやる気だと踏んだ。

 家に帰ると早速プランを練り始めた。ギロチンの本物は見たことがないけど、曲馬団の曲芸には必ず入っている。人参だが大根だかをすばすば切ってみせてから、支那服の若い女の首をつっ込んで、ストンと刃を落してみせるのだ。カミュに『ギロチン』という著作があって、その訳を読んでいた。首の落ちた体はそのまま置いてある。体は何時間も痙攣しているのだそうであった。百科事典を索いたら、図版が載っていた。私にすればそれで充分だから、あとはどういう具合に作ればいいか考えればいい。設置するつもりの場所を下見してみて、カミュの記述のような、たかだか2メートル余のものなんか、てんで迫力がないことにすぐ気が付いた。

 絵描きという奴はどうしようもないのだ。豪壮華麗でないと嫌なのだ。私の設計によると、そのものはせめて5メートル高はなけれぱならず、しかも強化ガラスで作られていて、クリスタルパレスのようにきらびやかでなげればならなかった、その上、この装置は作動したとたんにばらばらにくだけ散るのであった。カフカの場合、処刑機械に処刑されるのは、その機械の管理者にして、処刑執行者なのだが、私の場合、処刑されるのは処刑機械そのものであり、ギロチンは自裁を果すのであった。

 前号から読んでくれているひとなら気が付くだろうが、私は病み上りで、体力なんかからきしないし、それ以上に金なんかどこを振るったって出てくる身分じゃないのだ。ほとんど病者の夢想に等しいのである。設計図は引けたって、強化ガラスで高さ5メートル、長さ2メートルのしろものを自分で作れるわけがない。金持だとか、ガラス会杜を騙くらかしてみたところで、非合法に広場に据えつけようというんだから、話に乗る奴がいるはずはないのだ。それを本気で考えるのだから、これは馬鹿にきまっている。口惜しいから、翌年そのプランを文章にして、ある雑誌に載せた。

 そうしたら中西夏之に早速批判された。《これは実現のための計画表ではなく失敗に終った後の整理表である。実現しなければなんにもならず、そのための計画文書であって、告白めいたものであってはならぬ。行動に向って自己を賭ける論理よリも、その心境の日付しかなく、行動の形骸が抽象的な空間の中で文学的に期せずしてなってしまっている。これではフロイトの芸術リビドー説がいまだに通用してしまう》こういうわけだ。

 なんにも出来ないのが、残念で、翌日が天皇誕生日だという夜、二重橋の堀のへりにぼんやり坐っていた。ところどころに水銀灯が夜霧のなかであいまいにともっていた。右翼学生が参賀一番乗りをねらってうろうろしていた。ひどく疲れていた。ぼんやり学生達を眼で追いながら、夜陰には黒服だとかえって眼立つのに気が付いていた。

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 日本の美術家達が、おとなしく絵を描いているだけでなく、展覧会場であれ、場外であれ、なにかしらアクションを含んだ表現を始めるのは、1920年代からであるが、これは第一次世界大戦後のダダイズムの直輸入であった。ウオール街に端を発した世界恐慌は失業者の大群を作り、一方では労働争議が頻発した。ロシア革命の成功を背景にしたプロレタリア美術運動の盛行と、ダダ後のシウルレアリズムに席巻されて、アクション含み表現はあっけなく消えてしまうのだが、このアクションの復活には1950年代後半まで待たねばならぬ。

 大阪のグループ具体美術がその魁けと言えようが、具体に先駆して大分の風倉匠によるハブニングがあった。いまはハブニング類似の行為をバフオマンスと言っているが、パフオマンスの前にはイベントと言ったりした。これらは言い方を変えただげではなくて、それぞれに内包する考えの違いがあるのだが、そのことはさて置く。1960年代に入るとハプニングの花盛りであった。

 単に絵を描いたり、彫刻を作ったりすることでは収りのつかない焦燥感が若者達にあったのだと思う。既成の画家達や、その作品に対する不信、革命党の権威の失墜などがないまざって、体ごとぶつけていく緊張におぼれることの快感をこそ芸術と念じたのでもあろう。ともあれ、まずそこから、そこを出発点にして、自分の芸術を考えようとしたに違いない。そして靉嘔にしても、ネオダダの諸君、九州派、時間派、観光芸術研究会やゼロ次元にしてもハイレッドセンター、あるいはニルバーナの面々にしても、それぞれの構成メンバーは、良し悪しを別としても、アクションを通して自分の表現の方法を確立していったのである。

 私ごとき者のところにもハプニングの案内は送られてきた。そのいくつかは見物に行った。どうも面白くなかった。やってる本人はきっといいんだろうなと思った。けれども見ている方は退屈でしかたがないのであった。踊らにや損々である。絵や彫刻がひとに衝撃なり感銘なりを与えるように、アクションにもそれがあるのでなければ、こりずに見に行くのはよほど阿呆である。これじゃ駄目だと思った。既成の美術は全部吾々には関係ないというところまではいい。しかし連中は仲間内の内閉した空間が、どうせ絵描き馬鹿がなにかやってると世間のひとに思われる範囲でしかやっていないではないか。それが一体なんだ。芸術なんかなんの役にも立たないし、世間から切り離されてしまっているという現状に衝迫力を持って対峙する手だては一体全体ないのか、これが私の考えであった。だから病後の体を川仁宏のところに運ぶたびに、川仁を含めて中西夏之と話をしていたのである。ギロチンの計画を雑誌に発表したのが1962年3月、ウロポンK・J高松・N中西・K村田連名による山手線円環行動はやはり62年の10月であった。ウロポンK・K村田はともかく、J高松・N中西はそれぞれ高松次郎・中西夏之であった。


今泉省彦

『山手線円環行動』は上野公園で行き暮れてしまった
(絵描き共の変てこりんなあれこれの前説3)

仁王立ち倶楽部@CHRIS004(1985年9月発売)

 ある日、角封筒入リの案内がとどいた。品川駅を起点としてなにかがあるというのだ。連名の呼ぴかけで4人、そのなかにJ・高松、N・中西とあるから高松次郎・中西夏之がなにかたくらんでいるのに相違ない。私は指定の日時に品川駅のホームで降りた。顔を白塗りにしたK・ウロポン、K・村田、中西、白塗りでない高松、それに友人の川仁宏、彫刻家の小畠広志、その他顔見知りが何人もいた。雑誌『美術手帖』編集長の愛甲健児が寄ってきて、このブランの企画は今泉さんだと聞いたのですがと言った。「知りませんよ、ぽくは案内もらったから見に来ただけです」愛甲は冷めたい奴だな、本当のこと言ったっていいじゃないかという顔をした。でも本当にそうなのだから仕方がない。中西はコンパクトオブジエと称する古靴だとか髪の毛だとか、こわれた時計だとかのつまったアクリルの卵型の作晶に鎖をつけてぶらさげられるようにしたもの。高松はぼろ布を撚って、こわれたおもちゃや、がらくたをくくりつけて、ペンキで真黒に塗った作品をボストンバッグからひきずり出していた。この紐の作品は、高松によれば不在体であってこれとの関係が出来るとすべてのものは不在化するのであった。ハプニングは品川駅を皮切りに車中でもなにかやりながら、有楽町・東京・上野・目暮里・池袋・新宿・渋谷と、電車を降りて、ホームでなにかをやって品川に戻ってくるはずであった。カメラマンが沢山来ていた。ムービーも一台いた。新橋のホームに降りたとき、高松が私のそばに来て、サングラスが欲しいと言った。彼は当時会社勤めで、休みをとって来ているのだが、顔を白く塗るのも嫌だけど、素顔を見られるのも不昧いとそのとき気が付いたのであろう。仕方がないから、私は判ったと言って一電車先に東京大丸にとんで行った。10月でサングラスは売場にはなかった。婦人用のファション物だけなのだ。それを買って、馳けて東京駅のホームに戻ると連中はそこにいた。「おい女物しかなかったよ」「それでもいいです」と高松は言った。上野で又降りた。ホームでがさがさ皆がやっていると中西が公園口の階段を昇っていった。追っかけていくと彼は改札を出てしまっている。これ又仕方がないばらばらでなにかやっている連中ひとりひとりに、中西が改札を出ていってしまったぞと言って歩いた。なんのことはない、にわかマネージャーみたいなもんだ。卵形オブジェをなめてみたり、懐中電灯でてらしてのぞき込んでみたり、鶏卵をかけてみたりしたところで、そんなに永持ちするわけはない。所定の駅で降りるたびに乗っていた電車は行ってしまうのだから、なにも知らないひとの前でなら何回同じことをやっても新鮮だろうが、ぞろぞろついて回るカメラマン・美術家・ジャーナリズムを意識すると、やりきれないだろうと思う。中西は疲れ果てて改札を出てしまったのだ。公園口を出て、右に科学博物館の方に少し行くと柵があって、そこからは線路が見下せる。ぼんやり電車が鴬谷に向って走り出すのを跳めながら、ああ皆行ってしまったと中西は思ったのだそうだ。もともと、ちょろっと逃げることの好きなたちではある。内心ほっとしただろうと思う。私に見られていたのは気付いていないのだ。皆は私から聞いたから三々五々改札を出て来た。カメラマンや美術家やジャーナリストもついてくるにきまっている。つまり、そこで終りであった。東京都文化会館の脇で一寸となにかやって、皆気落ちした顔になった。卵型オブジエも紐もボストンバッグのなかに収まって顔白塗リの連中は東京文化会館の便所に顔を洗いに行った。後日知ったが、グループ音楽の刀根康尚と小杉武久は呼応して同時刻に、山手線を音楽イベントをやりながら、彼等はひと廻りしたのであった。どこかで合流出来ると思っていたのかも知れない。

 私はどうも面白くなかった。《「……元の型をすくい出して『………の為に』供することも都合のいい鋳型に流し込んで再出することも」「無意味になってしまった現在、おれ達はこの流動物の中を泳ぎまわって撹拌し空白にしてしまおうと言う欲求にかられる」「この集含体に出くわすなら、空白内のカクハンされた一分子と化し、個性を消され、あなたとおれ、おれ達と物質の識別不可能なルツボの中に落ちいるだろう」》こう彼等は案内状に書いていた。現状認識については異論がない。撹拌して空白にしてしまいたい欲求もそうである。だがしかし、あなた達はかくかくなるであろうということになれば、そんなわけにはいくかいと思うのだ。若い意欲は、大方そんな風にして見当を狂わせるのに違いない。それにして沢山のカメラとムービー迄いてしまえば、なんにも知らない乗客でもカクハンなんかされはしない。私が聞いたわけではないが、あれはきっとテレピか映画のSFもののロケじゃないかとささやき合っている乗客もいたそうだ。変なことに出逢うと、そんな風にして理解できるものに還元して、日常に戻す力というものを、吾々は持っているのだ。カメラは案内をもってきた奴等が持参したのより中西や高松が記録を残そうとして呼んだ奴の方がはるかに多いのだ。彼等は自分でねらっておきながら、乗客の意識がカクハンされるのを邪魔していたのである。ましてや美術ジャーナリズムや美術家共は、高松や中西がなにをやっても、したり顔で彼等をとり巻いているのだからなんだか分らないにしても、少なくとも芸術に違いないところで納得させてしまう邪魔者にきまっているのであって、彼等はこの山手線円還のハブニングを、後年山手線事件と称するのだが、こんなものは事件ですらない。もっともカクハンされたのは実は当の本人達なのである。私は君達に総括をしろと言った。

 総括は形を変えて座談会になった。美術をめぐる思想と評論とサブタイトルした『形象』という同人雑誌で、金を出す同人は芸大彫刻を出て教師になっていた佐藤和男と遠藤昭、それに私、金にはまったく無縁の川仁宏、この4人が編集をしていた。前号に書いたギロチンのくやしまぎれのプランはその雑誌に載せたのである。中西は仲間だけで話をしても面白くないからと言って、赤瀬川原平に声を掛けた。その頃の赤瀬川はまだ文章を書いていない。赤瀬川は心細いもんだから仲間の木下新を連れてきた。木下新はいまニューヨークにいる。そんなわけで、この座談会は当事者の高松と中西、ゲストの赤瀬川と木下、編集部の川仁と私ということになった。場所は大森に移った川仁のアパートである。赤瀬川も木下も、山手線のときには来ていなかった。だがら赤瀬川はどういうことをしたのか知りたがった。中西はやったことよりは、やろうとしたことの方が大事なんだと言って、なかなかしゃべらないのである。赤瀬川はいらいらして「意外と判るんだな、聞けば」と言った。


今泉省彦

早大での犯罪者同盟主催の演劇ショーとプレH・R・Cの関係について
(絵描き共の変てこりんなあれこれの前説4)

仁王立ち倶楽部@CHRIS005(1985年10月発売)

 山手線をひと回りするハプニングを総括する座談会は、中西夏之が言いしぶるものだから、はじめもたもたした。壮図むなしく、本当は渋谷迄回っていくはずのハプニングが、品川・有楽町・東京・上野と来て、そこで止ってしまった原因は中西にあるのだから、これはやむを得ないことである。中西は自分達のやったことの、意図の説明として、こんな風なことを言った。今泉のギロチンのプランは、対応する事件があって計画されているけれど、自分たちのには対応する事件がないと。つまり自分達の行為そのものが事件なのだという考えであった。この性格はやがて結成されるハイレッドセンクーに引き継がれていった。

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 はっきりした記憶はないが、山手線の騒ぎの頃だったと思う。私の処に平岡正明から連絡があった。11月の早稲田祭で大隈講堂を使って芝屠をやるんだけど協力してくれないかという話であった。場所はどこだったか忘れてしまったが、10人ほども居たろうか、平岡は馬鹿にはしゃいでいた。舞台で裸になってくれる女はいないかなというから、小野洋子に頼んでみたらどうだとか軽口をたたいていた。平岡はそのひとはどんなひとかと聞いた。当時の小野洋子は世間的には無名であった。「舞台で強姦してしまうんだ」「へえー、それはいいじゃないか」とは言ったが、そのかわり小野洋子どころか、役者として裸になってくれる女のひとを探すのはいやになってしまった。

 この芝居の構成メンバーは、大江戸揮沌党とか、犯罪者同盟とか言って、早大露文の2年か3年だった平岡と宮原安春が組織した連中で、彼等はかってあつた早稲田の演劇サークルの名前を騙って、早稲田祭実行委員会のプログラムに割り込んでいたのだった。台本はその時受取ったかどうか判然としないが、宮原安春の台本で、平岡は主演である。

 ところで台本の面白くなさはさておき、平岡の考えの幼稚さにはうんざりしてしまうのだ。年齢に10の差があるのだがらいたしかたないのだが、それでもなんとか協力してやろうと思った。なにしろ大江戸揮沌党である。彼等は難しいことばがり言うからわけが分らなくなるのだが、単純に言えぱ、維新前夜の薩摩藩が、江戸市中で火付強盗を働いて、人心を騒然とさせようとしたように、犯罪を激発させて、革命的情勢を作り出そうというのがねらいであった。けれども緒局彼等のやったことは、たかだか、軽犯罪に過ぎない。つまりは公然とアジるだけの思想集団だったのだろう。それでもなにかの役に立ちそうだから、関係はつなげて置こうと思っていたのだ。

 平岡や宮原とは自立学校準備会で知り合った。自立学校というのは、詩人をやめたばかりの谷川雁が、筑豊の大正炭坑闘争に入れあげて、どうやら先も見えてきた感じの頃に、自立した思想集団を作るというようなことで始めた学校で、1962年の9月に開校集会をやって、たしか10月から早稲田の観音寺で授業を開始した。とりあえず準備会メンバーが運営委員になったが、山口健二、松田政男、川仁宏、平岡正明・宮原安春・栗田宇喜・私などであった。もっとも川仁・平岡・宮原・私は一カ月後に運営委員を降りた。他の三人はともかく、私は、集ってきた生徒と講師との関係が、ファンとスターのそれみたいなのに嫌気がさしたのである。講師は谷川雁をはじめ、吉本隆明・秋山清・埴谷雄高・栗田勇・森秀人・中村宏など、錚々たる陣容であった。

 この開校集会で、司会役の山口健二が臨時講師の立候補をつのったら、中西夏之が立候補した。彼はその場だけの講師として立候補し、例の卵型のオブジェをぶらさげて、発煙筒を燃いて満員の会場をぐるぐるめぐリ歩いた。音楽家の小杉武久も同時に彼の演奏をやった。これは紐で自分がぐるぐる巻きになるというものであった。

 司会の山口は一寸と困った顔をして、この立候補を認めるかどうか、後日運営委員会で検討すると言った。中西はその場でやればよかったのであって、後日、自立学校の講師になりたかったわけではないから、この山口のとんちんかんはおかしかった。

 そして10月には中西・高松等の山手線のアクションがあり、平岡達の大隈講堂の芝居が11月であった。私は彼等に協力するとは言ったが、どうしても素直に舞台美術をやってやる気になれなかった。そこで、以後の彼等の会合はすべて欠席して、彫刻家の小畠広志、中西夏之、高松次郎の3人に、それぞれ別々に逢ってなにかやれと口説いたのである。

 赤瀬川原平が『東京ミキサー計画』(1984年・パルコ出版)という本を出した。ハイレッドセンターに関する文章をまとめたものだが、自分がかかわっていないことについては聴き書きだから、間違っているところが大分ある。面白おかしく書くのもいいが、文名の高い赤瀬川が書くと、即事実と思い違いされてしまう、大勢には影響がないと言ってしまえばそれまでだが、例えば赤瀬川だって、森秀人に赤瀬川も自立学校の生徒だったと書かれたとき、ぼくは関係ありませんよと言って怒るのである。赤瀬川は自立学校となんの関係もなかった。同じように、前掲書にプレハイレッドセンターとして大隈講堂の芝居の記載で「11月22日犯罪者同盟主催の演劇ショー、早大・大隈講堂 高松出演、中西舞台美術を坦当」とあるのは誤りであり、音楽担当の小杉武久が、音楽を流さずに、細い紐を使って客席をぐるぐる回っていたとあるのも誤りである。まず小杉に関してだが、音楽については小杉に頼めと平岡に言ったのは私で、当日、小杉は舞台の袖でテープを使って音を流していた。細い紐を使って客席をぐるぐる回ったのは自立学校開校集会の時である。次に高松出演、中西舞台美術と書くと、犯罪者同盟と合意があつたように読めてしまうではないか。犯罪者同盟側は、高松や中西が彼等の芝居を妨害するようなふるまいに及ぶことなど、まるで知りはしないのである。ましてや、小畠広志が彼等の芝居のサバトのくだりのところで、2階観覧席から自分の彫刻を突き落し、こなごなに壊そうとしていることなんか知るよしもないのである。

 当日早めに会場に行くと、入口に3×6の小汚いベニヤの看板が立っていた。ところどころに糞がひりつけてあって、なんでも平岡が尻をむいてひりだしたものなのだそうであった。私はそういう犯罪者同盟諸君のマスタベーションがなんとも嫌なのである。小畠も高松・中西も来ていた。いまは彫刻学生の注視の的になっている若林奮も立っていた。小畠は気負って上気した赤い顔だったが、高松・中西・若林はわけあリげににたにたしながら立っていた。


今泉省彦

犯罪者同盟なんかへの河童! 絵描き共は暴走した
(絵描き共の変てこりんなあれこれの前説5)

仁王立ち倶楽部@CHRIS006(1985年11月発売)

 大隈講堂の犯罪者同盟の芝居で、彫刻家小畠広志がやろうとしていたのはなにか。彼は埋葬彫刻と唱して、黒枠付きの案内状を、美術家や美術評論家、美術ジャーナリズムに発送していた。白セメントで舟底型の、内側を真赤に塗った自分の彫刻を、10点ぐらいあったろうか、それをその場で全部壊すつもりでいた。

 私と小畠との打合せでは、芝居のサバトのくだりで、2階から彫刻を落すやいなや、彼は手斧や鉈でその作品をたたきこわす。私は2階右袖の照明をひったくって、小畠に光をあてる。そういう寸法であった。2階で見ていて、サバトが始ったところで合図を送ると、小畠は懐中電灯を2階正面客席に向けて振り回した。そうすれば小畠の遅れてきた仲間が、バケツに汲んできた水を下にぶちまげて、人ばらいをして彫刻を落す手はずであった。ところがいっこうに水をぶちまかないのである。真下に大柄でふとった婦人が立っているのだ。小畠はかまわないからぶちまけろ! と地団太踏んで叫んだ。もろに婦人を水びたしにするわけにいかないからためらっていると、小畠がとんできて、その婦人を突きとばした。婦人は「なにをするのよ!」とどなった。当時はまだ、画家小山田二郎の夫人だった小山田チカエであった。

 それでとにかく水をぶちまけて、彫刻を落すことが出来たのだが、本来彫刻家は誰でもそうだが、作品を作るときは壊れないように丈夫に作るものだから、3メートルくらいの高みから落してもびくともしなかった。小畠がとびついて力まかせで手斧をふるっても、破片がとびちるだけで、思うように割れてはくれないのだ。彼は悪鬼の形相であった。私は私で照明のところにふっとんで行った。ところがなんと、舞台照明はすぺて舞台天井からのブラックライトだけで2階袖のライトにはそもそも電源が入っていないのであった。

 照明が使えない以上、そこにいても仕方がない。中西夏之や高松次郎がなにをしているのだろう、私は下に降りていった。ロビーに出たら旧友の画家武田敦史が首にカメラをぶらさげてきていて、「あっちだ」といった。講堂の便所である。私は入って行って吹き出してしまった。舟底型の縦長の小便用金隠し10箇ぐらい斗列しているのだが、その内側が全部真赤に塗られていた。外側まで真赤なのもあった。大便器も同じであつた。これではまるっきり小畠の必死になってたたき壊している彫刻とおんなじではないか。中西は小畠がなにをやるのかを知らないのだから、これは全くの偶然だけど、おかしいったらなかった。

 にやにやしながら武田に写真を撮ってもらっていたら、早稲田祭実行委員の腕章をつけた学生が入ってきて、「これは貴方がたですか」と詰問した。「いえ違いますよ」「じゃあそこでなにをしてるんですか」、なにしろ武田がカメラをかまえているのだから、疑われても仕方がない。「いや、面白いから写真撮ってるんです」、学生は釈然としない顔で出ていった。

 武田の話によると、中西が白衣・白マスクで金隠しを塗っていると、実行委員会の学生が入ってきて、なにをしているのか聞いたのだそうだ。白衣・マスクの中西はとぼけた顔をして、「えっ、これは新しい消毒の方法です」とか言ってごまかしたらしい。このときの武田の撮った便所の写真は白黒だけど赤瀬川の『東京ミキサー計画』に載っている。

 場内に戻ると、小畠はもういなかった。替りに高松が例の紐の作品をひきずって舞台に上っていったと思う。小畠を探して、会場左脇の廊下に回って行ったら、壁に小畠の彫刻が5・6体立てかけてあって、これはかなり壊れていた。ロビーに戻ると小畠が彫刻を壊すための七つ道具を入れた道具袋を持って現われた。物凄い剣慕でそれを私に放りつけた。おい、どうするんだこれ、「今さん捨てろ」といった。よほど興奮していたに違ない。いくら捨てろといわれたって、道具は彫刻家の魂である。私が捨てられるわけがない。小畠はそのままどこかに消えてしまった。仕方がないから小畠の家にそれらを届けて家に帰った。

 後で聞いた話では、芝居が終ると、早稲田祭実行委員会が損害賠償だとか、片付けろとか大騒ぎをしていた。早稲田側の損害は、小畠が彫刻を2階から落させたとき、講義筆記用の椅子の背中の折りたたみの机の蝶番がひとつくたくたになっただけで、片付けは小畠の彫刻を含めて、犯罪者同盟の諸君が全部やらされた。中西の塗りたくった便器の赤いペンキを落しながら彼等は「やっぱり絵描きにはかなわねえや」と言っていたそうだ。私はちゃんと協力してやれたことで嬉しかった。更に後で若林奮の話を小畠から聞いた。トロッキーかなにかの、ビラをまくつもりで、二階観客席に坐っていたのだそうだ。若林は内気な男だから、結局なにも出来ずにいたのだろう。

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当時、日本アンデパンダン展と称する展覧会がふたつあった。いずれも上野の東京都美術館で開催されていた。一方が日本美術会主催で、一方は読売新聞社主催であった。アンデパンダンとは自主独立といったようなことだが、美術の世界では出品作品の審査をしない展覧会の意味であって、そういう展覧会は、同じ東京都美術館を使って、他にもふたつみつあった。しかし、同じ名前というのはこれだけである。日本美術会の日本アンデパンダン展は1947年12月に第1回展をやり、読売新聞社のは翌年の2月が第1回展であった。当然日本美術会側は読売新聞に抗議したけれど、読売側が応じなかった。それで同じ名前の展覧会が、以来15年間、東京都美術館で、時期こそ違え、並存することになった。仕方がないから識別上、日本美術会のを『日美アンパン』読売新聞社のを『読売アンパン』と吾々は呼ぶようにした。

 読売新聞社は説明を要しないが、日本美術会は知らない読者が多いと思う。太平洋戦争終結後、民主主義美術をめざして結成されたのだが、その設立の時期には、いま見てこのひとがと思うような画壇の大家が名を連ねている。二度と戦争協力などしないように、そして困習に満ちた画壇の権威主義に屈しないように、画壇を民主的に再編成しようというのが、その結集のねらいであった。ところが戦前にプロレタリア美術運動に参加していた画家達や、美術評論家達が、大量に共産党に入っていて、このひと達が、日本共産党の文化政策の美術部門にいて、党員以外は大衆とみなした指導方針でのぞむものだから、日本美術会結成に賛同して参加した大家達は次々に脱落してしまった。

 共産党にとっては日本美術会は大衆団体であって、党指導の対象なのであった。そんなわけで、日美のアンパンは社会主義リアリズム風の絵が溢れていた。そうでなければ絵ではないと言われそうな雰囲気であった。


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