フー・ロビン写真展
-ドキュメンタリストの視点から-

2008年11月17日(月)- 11月29日(土)
13:00-19:00
東京・gallery mestalla

[English]

*これは荒井真一による非公式サイトです

フー・ロビン(左)とパートナーのモッチャイ

東京・gallery mestalla
千代田区西神田2-3-5千栄ビル1階(最寄り駅/地下鉄神保町駅、JR水道橋駅)[地図]
電話/03-6666-5500、email/info@gallerymestalla.co.jp

企画:gallery mestalla、Visual Action in HK
協力:美学校


心の黙示

 傅魯炳(フー・ロビン)
は香港のアナキスト・アクティヴィストだった。俳優、バー「64」のマネージャー、旅行者であり思索家でもあった。彼はつねにカメラを手にしていた。演技をし、パフォーマンスも行った。2006年彼はガンで逝った。
 1968年香港の運動に挫折し、隔週刊「70年代」の編集に携わり、労働運動を支援した。その間、日本に来て三里塚で農民とともに戦った。その後89年の天安門事件を目撃し、植民地時代の終局と新植民地時代の到来を目撃した。最終的に彼は戦意を心の中にしまい込み、また戦場に行くことはなかった。それ以降、演劇運動/俳優に集中した。また多くの劇団、パフォーマンス・アートの香港公演をサポートした(日本では「風の旅団」、霜田誠二、黒田オサム、黄鋭、武井よしみち、竹田賢一など)。彼の写真作品を見るとき、忘却と隠された障壁を感じる。私たちが一度も到着していないあれら貧困の亡地へ。傅魯炳は終始自己の態度、方式を堅持して制作した。現代の功利に満ちた浮わついた社会の中、決して主流としての成功を求めず、彼は一種の知識人の心理状態でマイノリティの文化状況に関わり、アクティヴィストから観察者へと展開した。この一種独特な非専門家的撮影の視点を用いて、一幕一幕、喜びや悲しみの瞬間を記録した。私たちはこれらアンフォーカスの透視の画面から、傅魯炳の生き方を感じ、私たちの直面している苦しい立場を確認することができる。これらの写真作品は解放の可能性のヒントを示している。
(陳式森
/パフォーマンスアーティスト/香港在住

傅魯炳(フー・ロビン)
1952年3月1日 香港に生まれる
1971年 隔週刊「70年代」の「青年労働者」欄の編集に携わる。香港の政治運動に関わる
1975年 来日。三里塚闘争に関わる
1989年 劇団「民衆劇場」の俳優として活動を始める。また中国本土の民主化運動を支援する
1994年 初めてソロパフォーマンスを行う
1996年 インド、オリサの「民衆演劇国際会議」に出席。これ以来毎年インド、バングラディシュを訪れる
2000年 黄鋭(ファン・ルイ)作「六四/君の死」(室野井洋子、増山麗奈などが出演) の香港公演に協力
2001年以降 中国、日本、韓国のパフォーマンスアーティストの招聘と紹介
2003年 韓国「金泉国際パフォーマンスアートフェスティバル」に参加。キューバ、アルゼンチン、ボリビアを旅行。チェ・ゲバラの足跡をたどる
2004年 バングラデシュを訪れ、バングラデシュ独立戦争下の中国系バングラデシュ人のドキュメンタリーを上映する
2006年7月16日 ガンにより死亡
2007年11月 写真の個展を「香港芸術センター」で開催
2008年 「傅魯炳 -A File Left by an Observer」を刊行

★オープニングイベント
2008年11月17日(月曜)午後7時より
フー・ロビンゆかりのパフォーマンスアーティスト、舞踏家による公演


出演者
舞踏:
室野井洋子
パフォーマンス:
陳式森+武井よしみち
モッチャイ(ロビンのパートナー)
荒井真一+竹田賢一
「黒旗魯炳(ロビン)」
高橋芙美子
田中照幸


展示風景


「六四/君の死」室野井洋子


「六四/君の死」


陳式森(香港のパフォーマンスアーティスト)


ホン・オボン(韓国のパフォーマンスアーティスト)


高橋芙美子(日本のパフォーマンスアーティスト)


モク・チューユ(ロビンの親友。香港を代表する演劇人)


ボリビアにて


香港の社会運動




インドとバングラディシュにて








ロビンの思い出

荒井真一

フー・ロビンに会ったのは2002年6月4日の前日だった。陳式森(チェン・シーセン)とロビンたちが企画した「天安門事件記念」パフォーマンス公演を6月4日、そのころロビンが雇われマスターをしていた「64」バーで行うために、田中照幸、高橋芙美子とともに会ったのだ。1週間ぐらいの滞在の間、私はワンチャイ(香港島の中心)にある彼の20平米ほどのスタジオに寝起きした。そこは彼の演劇関係の事務所もかねていたためか、壁中が書棚になっており膨大な本があった。私は二日酔いの頭でそれらを取り出して眺めていた。黒っぽい装丁のいかにも自費出版ぽい本が同じタイトルで何冊もあるコーナーがあり、それらはクロポトキンアナキストの中国語訳の本であった(扉に肖像写真があったのでわかった)。また台湾や香港で出版された中国語訳の日本の本がたくさんあるコーナーもあった(妹尾河童のトイレの本がイラストも多く印象的だった)。彼は毎日1時頃スタジオに来て私をランチに連れて行ってくれた。大量のビールを買って帰ってきて、ハイライトをモクモクすいながら、私たちは筆談で話した(彼は英語が話せなかった)。アナキズム関係の本は昔、彼が友人のモク・チューユたちと自費(地下)出版したもので、あまり売れなかったらしい。また70年代に三里塚を応援するため半年ほど日本に行った。そのとき雑誌「技術と人間」の人たちに大変世話になった。それで、日本のことが好きになり、日本の本はよく読むということだった。もう一度日本に行きたい。でも、時間とお金がないとも。私は三里塚闘争に香港の若者が参加していたことにびっくりした(国際的な連帯)。そして、彼が私たちのイベントを献身的にサポートしてくれる理由がわかった。夕方になると一緒に「64」バーに行き、その後陳たちも合流し深夜まで香港の街を徘徊した。

2005年6月4日、「June Art and Action」というイベントに参加するために竹田賢一と香港を訪れた。このときもイベントが終わった後は彼のスタジオに泊まった。しかしロビンは煙草をやめ、酒もたしなむ程度だった。それは検査中だったためだ。検査の結果が出た日私たちは夕飯を食った。パートナーのモッチャイと陳と4人だった。ロビンは相変わらず飲まない。大酒飲みのモッチャイも飲まない。「検査はどうだったの?」「医者はたいしたことはない、養生していればじきによくなると言った」「よかったじゃない!」「いや俺にはわかるんだ。俺はもうダメだ。俺が一番わかっているんだ。もうダメだ」。私たちはは何も言えなくなった。彼らは帰っていった。私と陳は彼のスタジオに帰った。道すがら陳は日本語で「バカヤロー、何でなんだよ、バカヤロー、死んじまえ!」と叫び、ガードレールを蹴りながら泣いていた(陳は10年以上日本に住んでいたのだ)。数日後、何もなかったようにロビンは朝7時の飛行機に乗る私をスタジオに迎えに来てくれた。


2005年6月12日早朝ロビンのスタジオ近くで

2005年8月、成都のフェスティバルに参加するため、香港に立ち寄った。そのとき彼はアパートに私や友達を呼んでパーティをしてくれた。蒸した魚や料理は最高だった。しかし彼は明らかに衰弱していた。

2005年12月、「Artists in Action the Power of the PowerLess」という反香港WTO会議のイベントに参加したとき、彼は入院していた。モッチャイは私のパフォーマンスを見に来てくれたが、ちょっと挨拶をすると帰っていった。看病に疲れていること、精神的に深く傷ついていることがわかった。

2006年8月6日、ロビンの葬儀に参列する。

2007年12月2日、ロビンの写真展の最終日のパフォーマンスイベントのために香港へ。霜田誠二、高橋芙美子、台湾のワン・モーリン、韓国のホン・オボンらが参加。写真展は会場の壁という壁に彼の写真が展示され、それでも足りないのでテーブルの上にも展示されていた。仕事の関係で朝早く起き午後3時頃香港に着き、7時からパフォーマンスということで、それらの写真を最初はとても真剣に見ることはできなかった。疲れていたことと、その圧倒的な量にめまいがしたからだ。休ませてくれ、私は楽屋で眠った。その後、少しずつ作品を見ていくと、あれ、風の旅団がいる、霜田さん、武井さんだ、室野井洋子さんも、黒田オサムさんだ、中国のパフォーマンスアーティストだと、知った連中が紛れ込んでいるのだ。それは不思議な感じだった。当然私もいた。見ず知らずのインドの老人のすぐ近くに私がいる。曼荼羅曼荼羅なのだった。香港のデモの隣に、バングラデシュの貧民街の民衆がいて、すぐそばに、パフォーマンスアートの肉体がある。ふつうは整然と切り分けられている世界が、(もしかしたら)本来の切り分けられていない、有機的な世界として立ち上がってくるような感覚に、これは曼荼羅なのだと思った。

ロビンは生きているうちに、日本に来られなかったけれど、ロビンに見えていた世界とともに、彼は日本にやってくる。そして、この展覧会は北京、バングラディシュを巡回していく。


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(from 30th Sep. 2008)