ARAI Video Archive (since 20260816)

  20180917 "Herstory as Japanese for my mom late Fudeko san"
"The Five Elements–Starting From The Earth Live Art Project" Green Wave Art Yau Ma TeiHK


chen

chen

 


ARAI used the video bellow in his performance
my mother late ARAI Fudeko san (19270504-2017919) 
Fudeko san tearfully pleaded that "I should not do HAPPY JAPAN!"
20030102 her house Toyama Japan

------------------------------------------------

From October 31 to November 10, 2002, I participated in the “7a*11d” festival in Toronto, Canada.

In mid-December, two D(isital)V(ideo) tapes of my works arrived from “7a*11d.” I did not have a machine that could play them, so I made an effort to order an expensive semi-professional Sony video camera. It arrived at the end of the year.

I took the tapes and the camera back to Toyama City for the New Year holidays.

At noon on January 2, 2003, I put one of the tapes into the camera and connected it to the TV.

First, “Happy Japan!”

I lay down in front of the television, holding a can of beer in one hand, and started the video.

Behind me, at the kotatsu, my mother, FUDEKO, was sewing wallets to give to people at the care facility where she volunteered.

After a little while, she suddenly began to cry.

Crying, she said:

“You must not do this kind of thing.”

This was the first time FUDEKO had ever seen my performance “Happy Japan!”

She did not know that, after I returned from Zanzibar, Africa, in 1995, I had stopped making copperplate prints and had been doing nothing but performance art. My father, HISAO, who had died in August 2002, did not know this either.

I found it troublesome to explain performance art to my parents, so whenever I went abroad, I simply told them I was going overseas for “art.”

From my parents’ point of view, it was only natural for them to think that I was going abroad to exhibit my copperplate prints. HISAO, however, seemed to have had some vague idea of what I was actually doing.

I stopped the video and began interviewing FUDEKO with the camera.

She demanded to know why I exposed my chonchon — a Toyama dialect word for the penis — although in fact it was hidden by Pikachu; why I sang the sacred “Kimigayo = Japan's national anthem” in a posture as if I were taking a shit; and why I drew the sacred “Hinomaru = The national flag of Japan” with my ass.

She called me a “HIKOKUMIN” — someone who was subversive and disloyal to Japan in her wartime.

She said:

“It was so difficult to send you to a university in Tokyo.”

She also said that what I was doing was a betrayal of both my late father, HISAO, and her.

FUDEKO died on September 19, 2017
She was born on May 4, 1927.
She was 90 years old.

---------------------------------------
2002年10月31日から11月10日まで、カナダのトロントで開催された「7a*11d」フェスティバルに参加した。12月中旬「7a*11d」から、わたしの 2作品のD(isital)V(ideo)テープが 届いた。再生機種を持っていなかったので、がんばっ て高価なソニーの凖プロ用のカメラを注文した。年末それ は届いた。テープと そのカメラを持って正月休みに富山市に帰った。

2003年1月2日昼、テープをカメラに入れテレビにつないだ。
まず は"Happy Japan!"だ。テレビの前に寝ころんで、缶ビール 片手に再生開始。わたしの 母フデ子さんは後ろのコタツでボランティア先の介護施設の利用者 たちにあげる財布を縫っていた。
少したつと、彼女は突然泣き始めた。泣いて「
あなたは こんなことをやってはいけない」言った。
フデ子さんがわたしのパフォーマンス「Happy Japan!」を見るのはこれが初めてだったのだ。
彼女はわ たしがアフリカのザンジバルから帰って(1995年)から銅版 画をやめて、パフォー マンスアートしかしていないことを知らなかった(2002 年8月に亡くなった父、久男さんも)。わたしは パフォーマンスアートを説明するのがめんどうで、海外に行 くときは「芸術」のためだと言っていた。父、母からす れば銅版画の展示のためと思っていて当然だった(久男さん はうすうす気づいていたようだ)。

わたしはビデ オの再生を止めて、カメラで フデ子さんへのインタビューを始めた。

フデ子さんはわたしがなぜチョンチョン(富山弁=男性器)
を出し (実はピカチューで隠しているのだが)裸で、神聖な「君が代」をウンコ をするかっこうで歌い、神聖な「日の丸」を尻で描 くのかと問い詰めた。

彼女は、わたしを「非国民だ」と言った。そして、
あなたを 東京の大学に行かせるのはとても大変だった。こういう ことをしているのは亡き父、久男さん とわたしへの裏切りだと言った。

彼女は2017年9月19日に亡くなった。
彼女は1927年5月4日に生まれた。
彼女は90歳だった。



fudeko




香港のGreen Wave Art space、最後の日々――他に類を見ないコミュニティ・アートの拠点

ホルム ズ・チャン

2019 年4月28日 20:25
2024年6月4日 11:11 更新
*ChatGPTによる訳


上海街と ハミルトン街が交差するところに、歩 道に置かれた木製のベンチがある。金属製のフェンスに押しつけるよう に置かれた、何の変哲もない黒い板だ。そこ に座って背もたれに寄りかかると、背後を車が勢いよく通り過ぎていく 風を感じるだろう。

このベン チを制作したのはサンム・チャン (Sanmu Chan)だ。彼がこの3年間、何よりも関心を持って取り組んできたのは、芸術と油麻地(Yau Ma Tei)の地域社会との共生を見つけることだった。

「僕なら コミュニティ・アートと呼びます」 と、彼はこのベンチについて語っ た。

「コミュ ニティの中に置かれたアート作品で す」

「一日 中、誰かが座っています。朝は学生や 夜勤明けの人たち。朝8時に は、商品を配達する配達員がここにいます。その後は、ある種の年配の 男性たちが売春 婦について話していたりする。午後4時になると、 フィリピン人の家事労働者や母親たちが来る。それから、観 光バスから降りてきた中国本土からの旅行者が座っていることも多いですね」

こうした プロジェクトの多くが、上海街 404号にある CCCD Artspace Green Wave Artから生まれてきた。

床から天 井までの窓と、いかにも真っ白な壁 を備えた、上環(Sheung Wan)の流行のギャラリーとさほど違わない。しかし、ここを運営し ているの は、ワインではなくビールを飲み、腕まくりをした人たち だ。

チャンは キュレーターを務めている。 2016年以来、Green Wave Artは香港で最も多才で、型破りなアートスペースの一つとして知られるように なった。

毎週、何 か新しいことが行われていた。

展覧会、 コンサート、上映会、詩の朗読、パ フォーマンス、トーク、ワーク ショップ……。

時には、 現在起きている出来事に応答するた めの「緊急展覧会」まで開催し た、とチャンは言う。

最近で は、このアートスペースで、香 港と海外の抗議運動を扱った4本のドキュメンタリー映画が上映されて いた。

これもま た「応答」と銘打たれたイベント だった――まもなく消滅することに なるGreen Wave Artに対する、集団的な反応である。

「誰もが アーティスト」

北京生ま れのチャンは、中国が激 動した1980年代にパフォーマンス・アーティストとして名を上げた。

その後、 2002年に香港に定住し、彼 のアートは香港の街頭で日常的に見られるものとなった。

彼の活動 の多くは、現代中国への応答という 形で形作られてきた。

そして毎 年、天安門事件を記念する作品を制 作している。天安門事件では、中 国人民解放軍によって数百人、あるいは数千人ともいわれる学生や抗議 者が殺され た。

2014 年、彼は旺角(Mong Kok)の歩行者専用区域に立った。

黒い目隠 しをし、焼けた木で作った長い棒を 手にしていた。

そこに は、次の言葉が書かれていた。

「教えて ください。本当にこんな日があった のでしょうか? 1989年6月4日」

チャンは 香港の地域問題にも深く関わってき た。

2007 年のクイーンズ・ピア(皇后碼頭)の 取り壊しに反対する抗議運動や、2011年のセントラル占拠運動にも 参加した。

「香港の パフォーマンス・アーティストの多 くは、社会運動に関心を持ってい ます」と彼は言う。

「この文 化的環境の中で、問題に 取り組む必要があると考えているんです」

しかし、 2016年、旧友からの誘いを受け たことで、彼は自分の役割につい て考え直すことになった。

香港演劇 界の中心人物の一人であるモク・ オーガスティン(Augustine Mok)が、油麻地のこの路面店舗を引き継いでみないか、とチャンに 声を かけたのだ。

チャン は、これは実験するチャンスだと考 え、引き受けた。

一人で活 動するアーティストではなく、コ ミュニティのオーガナイザーという役割を担うことができる。さまざま なタイプのアーティストを結びつけ、彼らの 活動を広げていくことができる、と考えたのだ。

「パ フォーマンス・アートは通常、コ ミュニティの中で行われます。でも、そこに深くつながるのは難しい」

「以前は 自分一人で作品を作っていて、コ ミュニティの動きと関わる機会はあまりありませんでした」

「ここで は物事がどうやって起きるのか。そ して、アートにはどんな役割があ るのか。それを考え、探っていくには時間が必要です。だから、ひとつ の場所に腰を落ち着けてみたかったんです」

404上 海街の歴史

上海街 404号の1階のこの場所には、ちょっ と変わった歴史がある。

1999 年以来、政府が所有権を取得し、香 港芸術発展局(Hong Kong Arts Development Council=ADC)に年間わずかな賃料で貸し出してきた。

ADCは そこを「上海街アートスペース展示 ホール(Shanghai Street Artspace Exhibition Hall)」と名付け、ス ペースの運営方法について公募していた。

ここは現 在も、公的資金によって助成 されている香港唯一のコミュニティ・レ ベルのアートスペースである。

2016 年、ADCはコミュニティ文化発展 センター(Centre for Community Cultural Development=CCCD)のモクと彼のチームに、2年間の運営契約を与えた。

年間予算 は50万香港ドルだった。

チャンが 日々の運営担当として加わり、も う一人のパフォーマンス・アーティスト、オー・ヨン・トン(Au Yeung Tung)も参加した。

モクはか つて、こう書いている。

「長い 間、私たちはジョゼフ・ボ イスが群衆を背後にして棒を持っているバナーを掲げてきました

「ボイス は確かに大きな影響を与えていま す。私たちは彼の有名な言葉に導か れています。『すべての人間はアーティストであり、自由な存在であ り、自 分たちの生活を形作っている状況、思考、構造を変革し、再構築することに参加するよう呼びかけられている』」

モクによ れば、重要なのは「アクセスしやす さ」と「対話」だった。

「私たち は、上海街周辺の住民が、アー ト活動の単なる消費者ではなく、さまざまな芸術の創造者でもあると考えています」

シード・ ボム

「Green Wave Art」という名前は、CCCDのチームが、ある種の内輪 のジョークとして、また油麻地への敬意として決めたも のだった。

広東語で は、この名前は、この地 域で知られているある種のマッサージ店を意味する言葉と掛け言葉に なっている。

その ジョークが十分に伝わらないかもしれな いと考えたのか、チームは店 の外に派手なネオンサインを設置した。

そこに は、

「China Dream 24 hours」

と書かれ ていた。

Green Wave Artは不遜で、遊び心に満ちていた。

しかし同 時に、現在の香港が直面 する差し迫った問題にも取り組もうとしていた。

初期のプ ロジェクトの一つは、新界(New Territories)の土地 権利をめぐる問題をテーマにしたものだった。

政府が開 発のために村々をブルドーザーで取 り壊していた地域である。

しかし、 アーティストたちが持っていた進歩 的な政治意識は、油麻地で彼らが 予想していたような反応を得ることができなかった

地元住民 は、高い家賃と狭苦しい アパートの原因となっている大手開発業者を好んではいなかった。

しかし一 方で、新界の村民たちを「不法占拠 者」にすぎないと考える人もい た。

「彼らは ここに来て、僕たちを怒鳴りつける んです」とチャンは言う。

「どうや ら、村民たちが政府に土地を取り戻 された後も、そこに居続けること を主張していたので、彼らを不法占拠者だと思っていたんですね」

「そこで 僕たちは、『不法占拠者 vs. 不動産業界の覇権』というテーマで討論会を開きました……でも、彼らはまだ納得しなかった。それならということで、僕 たちアーティストが自分たちのお金を出して、新 界北東部への無料ツアーを企画したんです」

そのツ アーの後、多くの人が考えを変えた、と チャンは満足そうに語った。

Green Wave Artのプログラムには、しばしば野心的なテーマが設定さ れていた。

地域の問 題だけではなく、国際的な問題にも 取り組んでいた。

しかし、 問題があまりに難しくて「街坊 (kaifong)」――この地域に 暮らす普通の人々――には理解できないのではないか、という心配は決 してな かった。

重要なの は、人々を参加させることだった、 とチャンは言う。

彼が好き な例の一つが、家族写真のプロジェ クトだ。

「1年近 く、毎週日曜日に写真サロンを開き ました。無料だと言ったら、たく さんの人が来たんです」

表面的に は単純なプロジェクトだった。

しかし、 それは二つの社会的傾向に対する鋭 い対応でもあった。

第一に、家族写真は香港の高齢者 にとって人気のある記念品だった。そして油麻地には高齢者が多かった。

第二に、昔ながらのスタイルの家 族写真を撮るために家族が行ける場所がなかった。昔の写真館はすべて閉店してしまっていたからだ。

「驚いた ことに、僕たちは人々が 家族と過ごす時間を増やすことにも役立っていたんです」とチャンは言 う。

「時に は、腕のいい画家や写真家 である親しい友人たちの作品を展示するのを断ることもありました。彼 らは怒って、『どうしてこんな下手な作品を 展示して、僕の作品は展示しないんだ?』と言う」

「僕はこ う答えました。『いや、あ なたの作品にはコミュニティとの接点がないから』」

3年が経 ち、チャンによれば、すべての住民 がGreen Wave Artに親しみを感じるようになったわけではない。

それで も、少なくとも相互に認め合う関係は ある程度できていた。

そのこと は、「シード・ボム(seed bomb)」プロジェクトを見ればわかる。

これは、 香港の「空間」の問題に対する、ちょっ とした皮肉を込めた反論だった。

人々に、 種を入れた小さな土の玉を作っても らい、それを好きな場所に投げて もらう。

それは、 小さな「力を取り戻す行為」と して企画されたものだった。

あまりに も頻繁に人々から奪われている空間 を、市民が取り戻すことを可能に するためだ。

チャンに よれば、親たちは子どもを連れて シード・ボムのワークショップに参 加した。

そして後 になって戻ってきて、芽 を出した植物の写真を見せてくれることもあった。

無許可の アート

Green Wave Artに問題が訪れたのは、2018年12月3日だった。

ADCか ら一通の手紙が届いたのである。

政府に よって任命されたこの機関は、アー トスペースを4月末までに閉鎖すると通知した。

誰かか ら、「公共娯楽施設(place of public entertainment)」として必要な営業許可を取得していない、という 苦情が寄せ られたことが理由だった。

この決定 に対し、香港のアート界 からはすぐに抗議の声が上がった。

ADCが 政治的な検閲を行っている、と非難 する人もいた。

チャンと Green Wave Artに集まるアーティストたちは、以前から 政治問題について率直に発言してきた。

しかし前 年11月、彼らは抗議をさらに一歩 進めた。

政治風刺 画家バディウカオ (Badiucao)の展覧会が安全上の懸念を理 由に中止され、中国の反体制作家マー・ジエン(Ma Jian)の講演を、アートスペースのTai Kwunが中止しようとした。

これに対 し、アーティストたちはこの二つの 出来事を、香港の表現の自由を脅 かす「中国式の政治的検閲」だとして非難した。

Green Wave Artは7日間、テープで封鎖された。

「ほかに 方法がなかったんです。ハ ンガーストライキは古臭すぎるし、切腹する勇気もなかった。だから、 店を閉めるしかなかったんです」とチャンは言った。

彼は、こ の抗議について後悔はしていないと 付け加えた。

そして、仲間のアーティストたち の一部から強い反応がなかったことには驚いたという。

ADCの 決定について、チャンは、そ れが報復や政治的弾圧だったという証拠は持っていないと述べた

それで も、彼は許可の問題を理由にすること を「ばかげている」と考えてい た。

なぜ 1999年以来、以前の入居 者たちが同様のプロジェクトを問題なく行ってきたのに、今になって問 題になるのか。

なぜ、単 に契約期間が終了するのを待つので はなく、これほど急いでアートス ペースを閉鎖する必要があるのか。

香港フ リープレス(HKFP)に対する短い 声明の中で、ADCは閉鎖につ いて具体的な説明をしなかった。

同局によ れば、今回の決定は、

「現在の 視覚芸術分野の状況と、こ のプロジェクトの長期的な発展について検討した結果」

であり、 その中には「スペースの利用方法」 と「助成金の対象となる受給者」 も含まれているという。

「私たち は、このプロジェクトの将来の方向 性を深く検討し、香港における芸 術の発展を促進することを目的として、このスペースに最適な運営方式 を策定して いきます」

許認可問 題を担当する食品環境衛生署 (Food and Environmental Hygiene Department=FEHD)はHKFPに対し、Green Wave Artには「公共娯楽施設」としての許可がないと説明した。

しかし同 時に、そもそも許可が必 要だったのかどうかについては答えることができなかった。

広報担当 者は次のように述べた。

「当該施 設で行われる活動について、許 可を取得する必要があるかどうかは、その活動が実際にどのような方法で運営されているかによって異なります。ま た、過去に当該施設で行われたイベントについて、FEHDはそのような情報を持っていません」

「公共娯 楽施設条例(Places of Public Entertainment Ordinance)」では、娯楽とは「コンサート、舞台公演、音 楽、演劇ま たは劇場での娯楽、講演、物語の朗読、展覧会」などを含 むと定義されている。

許可を取 得せずに公共娯楽施設を運営した場 合、最高2万5,000香港ドル の罰金および6か月の禁錮刑が科される可能性がある。

上海街 404号の建物を所有する土地局 (Lands Department)の広報担当者は、許認可に関する問題は家主ではなく入居者の責任だと述べた。

また土地 局は、

「入居者 から、いかなる許可証ま たはライセンスの申請についても、支援を求める要請は受けていない」

と付け加 えた。

Green Wave Artはどこへ行くのか

4月が終 わりに近づく中、Green Wave Artが今後どこへ向かうのかは不透明だった。

一つの選 択肢は、立ち退き通知を無視し、公 的資金なしでそのままスペースの運営を続けることだった。

Green Wave Artの前身であるWoofertenも、2013年に最 初の契約が終了した際、ADCと対立していた。

それでも さらに2年間その場所に留まり、そ の後閉鎖した。

チャンは 新しい場所も探しており、すでにい くつか候補があった。

「路面に あることがとても重要です。2階 だったり、工業ビルの中だったりす ると、ただのアーティスト・コミューンになってしまう」

彼が自分 で作ったコミュニティ・ベンチに座 りながら、チャンは油麻地の人々 がいつもの一日を過ごしている様子を眺めていた。

「最初は つらかった。でも今は人々にこう 言っています」

「僕 たちがいるかぎり、場所は見つけ ます」