まきしのぶ(山岸信郎 真木画廊) 

現代美術・澪つくし -ステラークについて-
CHRIS003(1985年8月発売)

むかし、むかしといったってそんな古い昔でもないげどさ。日本が戦争に敗けて、しばらくしてからのことだから、たかだか十年にもたらない前のこと。そうそう、今、社長の大臣のといって、うすくなった髪の毛を、一本、一本、ていねいになでつけて、なんか、まるっきり似合わねえスーツなんか着こんんでさ老眼鏡を鼻の先にだらしなくかけて、「チミ達、いまの若い者…」はなんて、いやに大業にかまえている爺ちゃん達、彼等がまだニキピのガキ時代、「りペらる」なんて、いまの自販機本の元祖みたいな雑誌があってね、いや、売れました、売れました。なにしろ窮屈一方、お国のいうこときいて、黙って死ない奴は、みんな悪い奴、非国民、どうせ、はたちそこそこで、あの世ゆき、「英霊」なる神様にぷったくれんだから、生きているうちから、たてまえだけでも、神様づらしてろというわけか、女の話、助平話なんかするもんなら、上の人から直ちにぶんなぐられる時代、それが、一夜のうちに手の裏、ひっくりかえしたように自由になり、長らく、おさえこんでいた性が、いきなり解禁された時のことでしょ。初めて目にかかる、麗しさ、一糸まとわぬ御婦人のみすがた、いま思えば、随分とうぱ桜もいいとこのヌードだったげど、感銘したね。ガキども、たらいまわしに貸したり、借りたり、家へもって帰って、トイレの中などで、皆、オナニってたと思うよ。俺も、そうだったんだけどさ。

なんだか、へんな昔話になってすみません。が、これ書きたくてね。いやね、オラ、いつかこう全然気取らないで自分の普通の言葉で、もの書いてみたいと思っていたの。べつにビート・たけし先生や、タモリ先生の影響受けたわけじゃないけどさ、ただ、ああいう風にもの言える人、いつも羨しいと思っていたね、また、昔話になるけどむかしゃ、テレピも、エ口本、劇画本、氾濫させるほど、紙が豊富じゃなかった。でも、仙花紙って、いまのトイレットペーパー硬くした様な、黄色い紙の本でね、坂口安吾なんて、偉いんだか、偉くないんだか、ともかく、普通の、しゃベり言葉で滅茶苦茶な文書く先生がいて面白かった。いま考えると、先生の方はもう、とうに死んじまったから、何というかわかんないけど、読み手のワタシとすれば、いまのビート・たけしの爽快味があって楽しかった。で、俺も、いつの日にかは、心を楽にしてやってみたいと思っていたら、荒川編集長、早速、機会を与えてくれた。嬉しかった。

話は前後しちゃうけど、それで「りベらる」思い出したの。エロ雑誌だったけど、随分外のことも勉強になりました。「世界」の「中公」のっていう堅い雑誌も結構でしょうげど、エ口本、自販機本のピチピチギャルのオッバイや大股開を跳めながら、妄想の自由を楽しむのもいいんじゃないの、オナニーするもまた良し。

あの芥川竜之介っていう小説家ね、きっと、中学や高校の教科書にも、文が出ていると思うけど、だいぶやっていたというじゃない。自家発電ね。ワタシも、美術関係のこと、少しやっているけど、芸術とオナニー関係深いと思うよ。特に現代美術って、あの石ころがしたり、狐憑きの踊りみたいなことしたり、わかんないことばかりしてるやつね。でも、よく見ていると面白いもんだよ。理屈じゃなくて、作品作った奴の、もの、感じ方、考え方っていうよりは、考えの組みたて方、世界観なんていっていいのかな、そんなものまでふっと伝ってくる。だけど、気持を自由にして、一方で好奇心を燃やしていないと、伝ってこないよ。インポにどんないい裸体みせたって、立ちゃしないのとおんなじだよ。

たとえば、こんな手あいね。よくインテリぶったのがいて「なんでえ、これは作者のマスター・ベィションじゃないか」なんて、したり顔で、月並な、下品なごたく並ぺて得意がっている輩。「マスター・ペィションいいじゃないの。イメージが豊かになるよ」なんて軽くあしらうと、恐ろしく軽蔑の眼ざしでこちらをみるね。ほんと、あれいいんじゃないの。体に実害ないんだから。勿論、相手にだって、危害をおよぼすことはない。

最初から相手は幻なんだから危害もへったくれもありゃしない。変に神経質になって、どうも行為の様式が、美しくないからなんて堅く考えるとかえって精神障害起す。中学の同級生でそれでノイローゼになって廃人同様になってしまった人がいた。純潔無垢、正真目な人だったのにねえ。たまったものは出す。表現のはじめ。それでいいじゃないの。

さて、読者ならびに荒川編集長、話が横道にばかり外れていてすみません。ここから、表題の「現代美術・澪つくし」その周辺の問題に入らしていただきます。

ギリシャ生れのオーストラリア国籍、横浜住いのミスター・ステラークという変な外人、れっきとした国際的美術家、先月デンマークの首都、コペンハーゲンの招きで、その地の、国立美術館の前で、大分、大がかりなイヴェントをやったね、60メートルの高さのクレーンから、背中の皮膚に通した十数本のまぐろ用釣針で自分の体を吊り、おもむろに落下した。こころは、字宙時代、無重力空間に於て、人間の心身が受ける総合的な影響及び、その積極的な適応性の試みとでもいいますか、なにしろまだ誰も、やったことのないことだから、説明するとなると、舌がまわらなくなることが多いです。もっとも、簡単に説明つくことなら、余り面白くないからね。

女だって、男にゃ、まるっきり説明がつかないから面白いんだと思う。ただ、ウーマンリヴのお姉様達に申し上げておくけど、その逆もそうなのだろうから、俺がこう言ったって美しい柳眉を逆立て給うな。ま、それはそれとして、ステラーク氏のこれ、何故、美術かっていうでしょう。そりあ、そんなに無理して、どうしても、これ美術です。なんて抗弁する必要もないんだけど、自称、美術家のやることだから、美術といってもいいんだろうという程度のこと、なんのことはない。画家がキャンバスや、画廊の中でやっている冒険と探索、もっと恰好よくいうと、不在の世界への存在の投企とでもいったらいいのですかな、俺流の下世話な言葉でわかり易くいうなら、幻の美女に、向って、自家発電しているうち、瞬間的にも、夢か、現実か区別がつかなくなる状態。

いいねえ。よく、良い子達の読む本で、マッチ売りの少女のお話あるでしょ。貧乏で、可哀そうなおねえちゃん。クリスマスの夜、街角でマッチ売りしてたんだけど、あんまり寒いんで、売り物のマッチ一本ずつ擦って手を温めていると、もちろん幻なんだけど、豪華なクリスマスツリーが出てきたり、太った七面鳥が出てきたりして、彼女、ありあとそれを現実としてみるのだけど、.本人は朝になったら、凍死体として発見されたっていうやつ。似たような話は牡丹燈篭かな。美女だと思いきや、美女の幽霊と意を通ぜし、某の浪人、夜な夜な、骸骨と枕を交わしていた。なんていい話じゃないの。でも、こんな、お伽話めいた馬鹿話や、与太話がわれわれの歴史を作って来たんだし、時には、ぴっくりするような発明発見にもつながってきたんだから馬鹿に出来ないよ。

ステラーク氏のこのイヴェントからでも、どんな未曾有の発見が出てくるかもしれない。俺も日本人で、日本に住んでいて、本当に、いま日本は、恵まれている国だと思うけど、日本のおかみが、はっきり儲かるとわかるものにしか、銭を出さないというのはよくないと思うね。この頃の若い美術家達、生産性のない作品作ったって仕様がないなんて小ざかしいこと言っているけど、そんな、すぐ役に立つとか、金になるもの作ったって大した代物が出来るわけない。そりあ、ハイテク屋さんが、ソニーさん、日立さんの方が、よっぽど気のきいたものを作るのは必定。生産性と、創造性ってのは、必ずしも一致しない間題だと思うけどね、売れるか売れないか、役に立つかたたないか、成功するかしないか、なんてのは、芸術や、学間の世界じゃ、第一義の間題じゃない筈です。

この前、読売新聞で、江崎玲於奈氏が書いていた。問題や何やかや、アメリカさんは、そういう日本の極端な実利主義、経済主義を恐れているんだって。だからこのステラーク氏の一見馬鹿げたイヴェントでも、本人のマスカキだとか、売名だなんて馬鹿にできる闘題じゃない。そん中から、どんな発見が出てこないとも限らないからね、世界、古今を通じての天才レオナルド・ダ・ビンチだって、飛べもしない飛行機の設計に夢中になっていたようだけど、当時の人は、変り者の酔興ぐらいにしかみなかったでしよう。

そのステラーク氏のみやげ話。

コペンハーゲンの美術館の前庭では、フランスの作家が、自動車をハンマーで、やっためたらに叩きこわして、その破片を方々へ投げ飛ぱしていた。それが彼の芸術。ないしは芸術的行為とのこと。イタリーの作家の話も、イギリスの作家の話も、続くけどきりがないからよします。ともかくそれとくらべると、日本の現代美術は、なんと、つつましく、やさしく、面白くない、というのです。

いやね、ステラーク氏の指摘をまつまでもなく、最近は、私も、そんな思いをしている毎日です。文化、文化っていうけど、お体裁よく、つじつまあわせしているのだけが文化じゃないと思うんだげどね。ヴァイタリティも、エネルギーもなくした文化なんて、信じられないからね。


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