証言・状況としてのエイズ

石田吉明(京都からの手紙)/聞き手:これひさかつこ

はじめに
ひとりのHIV(ヒト免疫不全ウィルス)キャリアのひとがいる。石田吉明氏、46歳。「大阪HIV訴訟」原告団代表。血液製剤によって感染した血友病患者約2,000名のなかのひとりである。1992年2月現在、日本で唯ひとり、証言者としての任を自らになっている。その石田氏に語って項いた。病としてのエイズを、状況としてのエイズクライシスを…。

---COMEOUTされた理由を。

さしたる理由はないけれども、僕はこの裁判の仕掛人ですからね。それで来るべき証人調べが来たら、法廷に立って発言する、その辺の義務感。仕掛人としての、その日が来たということですね。

---石田氏自身の状況の証言を。

HIV元年(1981年)から数えて、咋年でHIV時代10年。日本のことだけをいうなら、10年間の経過というのは、初期に輸入血液製剤によって感染させられて、約10年の潜伏期間があって、それが徐々に発病の時期に達しつつある。それが昨年、今年の現状で来年はもっとひどくなる。血友病患者5,000名中4割が感染させられている。それらに伴う問題点がいくつかあって。まず、残念ながら現在特効薬がない。あるのは少しでも延命をはかるものでしかない。それは、生命が長びけぱ長びくほど苦しい日々の連続であって、高熱、倦怠感、時には下痢、時には嘔吐…という風にきわめて厳しい病状のなかで、いのちだけがなんとか守られて行く。それが延命効果ととらえられている。これはきわめて残酷な話なんです。入退院の繰り返しのなかでくる医療費の間題一一、宮沢首相の所信表明演説で「生活大国を目指す」という。しかしながらエイズの工の字も、HIVのHの字も出てこなかった。ことほどかように関心がまだまだ薄いのと、行政当局が"よそごと"自分たちのこととして迫って来ていないから、放置されている。一方、依然として医療側は個室治療。病院の中で、感染者が出入リするとほかの患者が逃げて行くのではないかという過度なおそれ、おののきみたいなものがあって、元気な状態であっても個室に収容して行く。差額ベッド代が当然負担になる。しかし、これが平然と行なわれているのです。つまり、国の薬害の犠牲者が右の頬を張られ、また左をブタれているようなものです。これが、いまの日本の医療の現実。また血友病を診療している医師たちも第2世代になってきた。彼らには『怨念』とか『贖罪』とかいう意識が全くない。単なる一感染者。薬害であろうが、関係ないんだと。実にサバサバしている。

果たしてこれから一般感染者が増えて行く。そういう人たちの治療の現場というのが確保できるのかどうか。我々血友病患者が努力して受け皿作りに励んでいるのですが。ルーツは問わない。ホモセクシャルであろうが、ドラッグであろうが…関係ない。そこにいるのは単なる患者なんだと。2,O00名たらずの血友病患者の治療さえもあやうい。これから2万、20万、200万と患者がなったときにこの国はいったいどうするのか、という危惧、危惧というよりも危機感を切々と感じながら治療に邁進にしている、これがまあ一つです。二つ目にいえばね。エイズの問題を拡大しないためにやることはいくつか決められている。やることは正しいKNOW・HOWを身につけてもらうことです。そしてエイズ報道のマスコミ。87年神戸で初の女性患者報道以来、こらしめの対象としてエンエンと来ている。コワイコワイ症候群の対象としての“エイりアン”像・そのプロパガンダを執物に繰り返している。たとえば、木村太郎の「ニュースCOM」で、アメリカの被害状況をワーとやった。で、「日本も対岸の火事ではすまされない」といって、僕らを完璧に無視するわけですね。145人ですよ。公式にすでに亡くなっている方が。壮大な被害を、薬害の被害を何故無視するのか、“対岸の火事”と何故いえるのか。どんどん発病者が出て、うごめいているわけね、屍がね。何故“対岸の火事”だと消してしまうのか、この薬害をね。どうするか、この惨憺たる現状を。

報道姿勢、報道の取り組みについて、我々が努力して、おかしいところはおかしいという行動を起こして行く。

エイリアン像という刷り込みをどう変えて行くか、焼け石に水かもしれないけれど、あきらめずにやって行く。当事者である我々が能動的に正面切って出て行って訴えたい。きめ細かい作業の連続線上において、いつか変わる日が来ると思う。少数の、いまの、マイナーなうちに、きっちりやっておく。数が増えたら安心というのは、それはまちがいだと思う。いまのうちにね。僕らの行動様式を変えたりすると、もっともっと見えない敵が侵略してくる。僕らが座視することによって侵略して来ますからね。

---『砂の器』に象徴される隠蔽された世界に。

まさに『砂の器』がマスコミのつくったエイズ像。それを繰り返し繰り返し…もうとても勝てない、挫折する。彼らの力は巨大…。なんとかそれを正すには・きめ細かな動き、草の根のムーブメント以外考えられない。

---草の根とは対極の国レベルに対して。

「エイズ予防法」というのは、この病気に対して失礼なんですよ。ホロコーストを僕らのなかにつくろうとしている。むざむざ殺されてたまるか一、収容所に送られてね。

エイズ予防法が浮上した87年、朝日新聞の論壇に僕は投稿した。写真つきで。それは僕にとっては一大決心でした。立場を明らかにするということは。仕事を辞めて、この運動に突入する。ここではもう生きられない。どこかへ引っ越すことも真剣に考えた。それくらいの覚悟でやった。

---HIVキャリアだとおわかりになったのは?

僕が告知を受けたのは1986年(昭和61年)7月。血液製剤をね、僕は仕事のために、ポパイのホウレン草の如く、打っていた。それで生きていた。それがないと動けない、仕事もできない。血液が…。だから9分9厘、やられているような思いで過ごしていた。しかし、人間というのはね…。1%ぐらいの希望が…ひょっとしたら違うんじゃないかという1%ぐらいのね。それが医者からの告知によって、最後の1%の望みも去った一。

---告知を受けとめた時…。

友人がこの病気で亡くなった時、主治医がポツリといった「石田君も抗体ができている」と。「気い付けてくれよ」と。その時“抗体”という意昧が、HIV陽性抗体を指しているとは何故か思わなかった。一瞬の間があって、そうか抗体というのは、あっち(HIV)の抗体だったんだと気付いた。その時、義経・少しもあわてず“鞭声粛々夜河を渡る”そんな感じでさりげなく繕って、じっと---動揺はいっさい顔に表わさなかった、それは刻明に憶えています。それで、帰りの車の中では、いろいろの思いがおし寄せて。1%の希望はうち砕かれた、明日からはもう1%がないよ、と。こん畜生、そういう思いが---。津波の如く襲ってきた、ひたひたと。これはもうなんとかしないと、僕の次の役割を考えた結果『京都からの手紙』に結びついた。

一“AIDSを生きる”ということについて。

あんまりわからない。血友病患者といわれて、その延長線上に起きた新しい展開で.....。

血友病とは共に生きてきた、“共生”してきたということですね。病気として、血友病はいちおう起承転結はわかっている。しかし、HIVはまだ“起承”ぐらいかな、だからまさに未知のなかに彷徨っている、そういう意味で、まだ“共に生きる”という意識は持てない。まさに格闘しているんです、この病気と。HIVはおとなしウィルスとして、やがては転換していくことがいろんな作用でできるようになる、希望的観測であるかもしれないけれど。そうなったとき“共生”、AIDSと共に生きる、生きられる一。ときどき、“撲滅”とか“エイズ撲滅”とかいうコワイ言葉が出てくる。撲滅といわれるとね、なんか撲殺されるようで、金属バットでバーンと殺られそうで震えるね。不用意にお医者さんでも使うでしょう。叩きのめされているようで、コワイね。HIVというのは馬鹿な奴で、もうちょっと賢くなったらいいんだけれど、宿主はからだでしょう。宿主を殺したら自分も死ぬんです。自分が生きたけれぱHIVも宿主を健康状態にして救ったらいいのに。おとなしく、動かないで、そうすれぱ共生できるのに。

---「生きる」ってことは?

血友病はね、かつては20歳まで生きられないという時代もあった。だからここまで生きるとは、思わなかった。46までね。そういうことで、いのちある限り急いで何することもないし、と思っている。僕の生きる作業っていうのは、たとえぱ3か月先、半年先っていう風に約束をつくる。約束をね、とにかく目の前の約東をきっちり果たして行く。できるかな、と思っても、あえて約束をつくってね。目先の目標をひとつひとつこなして、また作って行く。2月には法廷に立つ。そのために体力とかの管理もきっちりしておかないと。“生きる"って僕にとってそういうことなのです。

---AIDSとはアイデンティティの病だと。

僕にとって血友病が全てだったんです。生まれてからね。血友病でなかった経験則がないわけだから。それで意識することがなかったわけ。たまたま犬に生まれたとか、猫に生まれたとかの類のことで、たまたま人間に生まれた、血友病という病態をもって。それ以外は全くない、これが僕の全世界だったんです。しかし、HIVは唐突にそういうものとは関係なくやってきた。この世にいろんな差別があるでしょう。病気に対する差別も山のようにある。それを子供のときから感じていた。ときどき思ったのがね、民族差別を受けている人たちはどうかということ。たとえ体は健康であっても、非業な差別を受けている人たちの痛みはもっと深く、辛いだろうなと思っていました。血友病の医療環境が整備されるに伴い、当事者の間題を超えて活動を広げていきたいなと思っていました。そんな矢先HIVに感染してしまった。血友病の遺伝疾患と、感染症という差別的なものと。これは強烈だった。いわゆるアパルトヘイト的位置付けなんです。そのときすごいなあと思った。僕の役割はまた来たな、スゴイなあと。よしまた頑張ったるぞ、と。これはウソでもなんでもない。よし、来るものなら来いって。沈んでジクジク泣いている暇なんかない。オレはこれでまたやったる、闘おうって、そねがまあアイデンティティの確認だった。

おわりに
石田吉明さんは一年前にお目にかかったときより、随分疲れ、衰弱していた。インタビューは2時間におよんだが、途中、NHKの取材が入り、その後30分の休憩を要した。「HIVキャリアではない」ことの負い目と、マスコミに身を置く負い目とを痛いほど感じながら、圧倒的事実の前に冷静ではいられなかった。その夜から胃を激痛が襲ってくる。石田さんは願う。まずエイズをエイズとして、つまり、病を病としてありのままを受けとめることを。石田さんはいった。「同情はいらない。理解してほしい」と。ポリティカルな意思、によって、強制連行された2,000名の先兵をわが国に送り込んだエイズは、もはや深く我々の社会と自己の内部に棲みついていることを自覚せねばならない。


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