「きみはエイズじゃない」

シンディ・パットン/鈴木真理子訳

調査を楯に公衆衛生がさまざまな形で介入してみたところで、一切のHIVの伝達パタンを減らすこともできなければ(つまり、単にHIV[human immunodeficency virus ヒト免疫不全ウィルス]陽性者を行動パタンから排除するのみならず、結局は我々が行動パタンを変えなけれぱならない)、また差別のからくりが増大する緒果にもなった。1988年、大きなポスターがニューヨーク市の地下鉄駅の壁面に出現した。黒地背景に白文宇もくっきりと、こんな言葉があった「君はエイズじゃない。まあ確かめてごらん」。病院を母体とする検査施設の電誘番号がこれに続いていた。ニューヨーク市人権委員会のエイズ差別部門が病院にお願い申し上げているのだ。
最初のエイズ教育メッセージは率直なこときわまりなかった。たとえばこんな具合だ。君は軽い接触ではHIVに感染しないが、HIVに感染した精液を肛門や膣に入れたり、HIV感染血液を注射すれは、まちがいなくこのウィルスに感染する。政府資金によるゲイのための教育は当初から禁じられていたため、1985年末、ロック・ハドソンが死亡して「異性愛者エイズ」恐慌がおこると、エイズ教育の行政エコノミーはこのメッセージをおかしな具合に二分するようになった。刻々変化するHIV統計調査結果はマスコミのイベントと化し、『ライフ』誌の表紙にもっとも鮮やかに描かれることになる。その赤裸々で直裁な見出しには「だれ一人として安全ではない」とうたわれている。いったい誰がこの「だれ一人」にあたると解釈すべきか、また「安全」をどう理解すべきなのか、こうしたことは、社会的地位によって規定された「リスク・カテゴリー」や「エイズ」を絶対的な現象として構築する理論によって既に決定されていたのである。「リスク・グループ」と「大方の一般人=公衆」との鋭い二分をなくすどころか、「だれ一人として安全ではない」というレトリックのおかげで、コミュニティーの境界ばかりか個々人の境界までも規制されるようになった。つまり誰があやしいか判らないから「だれ一人として安全ではない」というわけだ。

ひとたび「一般人」がエイズの存在に無頓着でいちれなくなると、教育計画は「一般入」教育と「コミュニティー」教育に分かれ、それぞれのグループはそのグルーブに即したメッセージを受けとることになった。もはや「一般人」はなんとかエイズを遠ざけておく人々ではなく「危なくない」人々の謂となった。「リスク・グループ」の語は、少数派コミュニティーからの抗議でつぷれたが、まもなく彼らはかつては霊験あらたかだった「コミュニティー」なる語がいまや「リスク・グループ」と同一視される傾向にあることを思い知ることになった。『(ドアの把手に触れたり満員バスに乗った程度では)君はエイズに罹らない』、『(「コミュニティー」に存在する「あぷない」行為から)君はエイズに罹る』という新しいメッセージによって、一人ひとりの問いは「私はどうやってこのウィルスを避けるか」から「私はこの二つの君のうちのどちらなのだろう」へと変わった。情報の選択はいまや、「一般人」と「コミュニティー」のメンバーのいずれに属すかという個人の自覚にまかされることとなったのである。「一般人」と「コミュニティー」、この呼称上の変化には差異とリスクの混乱が温存されたままであった。これは、アイデンティティーの構築され方に関する不当な考え方に基づいているばかりでなく、認知された「コミュニティー」外での同性愛や麻薬使用に対する執鋤な否定を増大させている。「大方の一般人=公衆」の中へ感染者が登場してもそれがアイデンティティーの明確な区別を浸食するには至らず、かえって「クローゼット」に新たな意味を作りあげることになった回つまり麻薬打ちやゲイではないと同定された男たちで男性と性交渉をもつ運中は、一般人のメンバーになりすましていたにすぎないのだ。検査が「一般人」と「コミュニティー」との不安な区別を支え、検査結果陽性によって個人は「一般人」から「コミュニティー」へと組み直された。政府は「エイズ」が「大方の一般人=公衆」に入り込む証拠はまったくない、と執拗に主張した。「大方の一般人=公衆」への参入は定義上、ELISA法[enzyme-linked immuno-sorbent assay 酵素連結免疫吸着定量]陰性によって認定されているから、というわけだ。このために、リスク=感染=エイズの同一視が強められ、それぞれの人間のアイデンティティー(「リスク」と結びついた)にはたった一つしか重要な側面はないと決めつけられるようになった。このようにアイデンティティーを引き裂くことによって、情報を知悉した上で選択しようとする個々人の解釈力を致命的に無力にするちぐはぐなメッセージが生まれることになった。

たとえぱゲイの看護士。勤務中、彼はエイズに罹るはずはない、と言われ、バーでは途方もなく用心したほうがよい、さもないとエイズになるぞと、と言われる。彼は「勤務」として社会的に構築されたコンテクストでは、唾液がウィルスを伝達するはずはないと安心させられるのに、「性的可能事態の危険地区」として社会的に構築されたコンテクストでは、ウィルスがうつるといけないから「ディープキス」をしないように諭される。

または若者、「手のつけられない運中」(誰にとって?教育者か?)は別として大方の一般人の若輩メンバーとみなされる若者の場合。若者たちは良き市民たるもの、エイズの人々を恐れないものだと教えられる。年かさの若者たちなら、エイズをもって生活する人々ははしたない麻薬行為あるいは性行為(感染した連中と一般人を線引きする行為)に関わっていることを理解できるが、これに対して彼らは自身の生活におけるセックスの実践ないし、麻薬使用に直接関係するHIV伝達についての実際的情報を殆ど与えられていない。彼らはエイズとともに生活する人々に慈悲を与えるように望まれているが、その慈悲心が起こるも起こらぬも、こうした人々を決定的「他者」として了解することに直接かかっているのだ。それも、一連の性習慣によって性的異常がコード化され、エイズの言説においては白人青年にとって一連の麻薬習慣が人種をコード化していることをふまえた上でのことである。これと表裏をなして、リスクを減少するための有効な情報を成人が管理して、手加減された事実に限られたなかで、若者が手に入れ得るか否かは、この「他者」との自己同定次第であり、従って、自己放棄的愛他主義の理論は分裂することになる。

若者(「社会的に脱落した、手に負えない」宿無しの若者は別として。我々が彼らを教育するのは彼らが怖いからだ)のための安金なセックス教育をめぐる沈黙のおかげで、多くの若者たちは危険な人物だけが安全なセックスについて知る必要があると考えるはめになっている。筆者自身の経験から言わせて貰えぱ、こうした若者たちにとって「危険な人物」とは、おおむねヤッピーのライフスタイルをもつ成人たちだ。自分自身や友人たちが危険であると感じている若者は少なく、彼らは何ら特別の知識やテクニックがなくてもやって行けると思っている。彼らはこれはどこかおかしいと感じないほど馬鹿ではないが、あいにく大多数はおよび腰にすぎるか、あるいはただ無頓着かで、自分から積極的によりよい情報を獲得できないのである。避妊を求めることは計画的性行為を認めることにすぎないにしても、安全なセックス情報を求めることは死を招き寄せんとする意図のごとく思われているに違いない。若者のための麻薬およぴ性行動教育をめぐる沈黙は、倫理的には破綻をきたし致命的である。この点は、合衆国都市地域の最近の疫学調査から明らかだ。情報獲得の手段は階級や仕事、性差、セクシュアリティによって異なるが、このためにHIVの教育実践は、烙印を押された人々をどちらかといえぱ不健康なままにしておくという、懲罰じみた公衆衛生の実践に加担することになってしまうのである。

だが問題はこれだけでは済まされない。「高」リスク集団およぴ「低」リスク集団と思われるものに、それぞれ違った戦略を差し向ける保健教育の情報提供モデルは、隠れた倫理的構造に基づいているのだ。つまり、それぞれの集団が「事実」を受けとるとはいえ、「一般人」には知る権利がある。つまり自分を「守る」権利があるという前提のもとに情報が与えられているのに対して、「コミュニティー」は知る義務があり「一般人」を守る義務があるという前提の上で教育をうけるのである(人種差別的優生学の消えることのないこだまとでもいおうか、この社会は大量のゲイ男性やアフリカ系アメリカ人が死んでいることに、まだおかまいなしである)。「コミュニティー」の全員が感染しているわけでなく、「一般人」の中でも次第に多くの人々が感染していることが、いささかなりとも知られているとしても、この二つの集団はそれぞれ違う理由で「エイズに関する事実」を必要とする聴衆として規定されているのであり、また実践において実際異なった情報を与えられているるのである。情報モデルの中に隠れた倫理的偏重は、少なくとも現行のままでは、HIV伝達可能性のもととなるのは、特定の麻薬およぴ性行為へのかかわり合い方よりも、むしろリスク・グループの感染可能性であるというような、いい加減な考えを払拭することはできない。こうした単純な混乱が明らかにされない限り、自分の同類は感染していないから自分たちは安全だと信じ、またそれがゆえに自分たちの実践を変えなかった集団にHIVが侵入しているのであってみれぱ、今後も我々は高い伝達率を目にして行くことになろう。「コミュニティー」対「大方の大衆=公衆」への応対という様態の裏には、危険な行為に関わっている人間でありながらもなお、行動規範が内部で活発に変えられているサブカルチャーと同調しない大半の連中は、より安全なセックスの情報を自分で利用できはしないという倫理的判断が潜んでいる。彼らは安金なセックス情報を利用しないで、HIV抗体検査を試みて、自分が「危機に瀕して」いるのか、あるいはもっと教育が必要であるかを知るだろう。あるいは彼らはすでに感染していることに気づくかもしれない。女性雑誌や主流新聞にことのほか顕著なミドルクラスの異性愛者たちの抗議や、より安全なセックスの実践についての(あるいはこれに反対する)最近の通俗的テクストは、情報提供イニシアチブのもとにある知る権利対知る義務という、そもそもの矛盾に依拠している。異性愛者に向けられる殆どすべての情報が、まずHIV抗体陰性の人物と一夫一婦主義的関係を形成しあうよう勧めている(つねに読者は未感染と前提されている)。陰性抗体検査結果を根拠に個人が彼女/彼の「知る義務」および、安金なセックスの実践に対する義務から免除され、そのためにまた、かつて「知る権利」(他の人々のステータス)が行使した安全ならざるセックスのテクニックを彼女/彼が実践できるのだ。こう考えられている限りHIV検査過程はロシアンルーレットになってしまう。

(中略)

エイズの物語はHIVというウィルスを極度に支配している。エイズという物語は政治的現象というより医学的現象としてのエイズによって発生する社会的抑圧を正当化するために、HIVとHIV検査を必要とする---HIVは検査の外には存在しないのだから---。エイズは終始一貫公衆の言論を締め付け、HIVを被りそうな人々の個人的行為を詮索することによって、科学の言説を根付かせる必要があった。エイズはHIVに先行している。エイズがHIVに先行するというこのシステムはすでに、管理下の不健常を通じて異常性行動を観察する位置を占めていたのだ。それは性行為によって伝達された病気ないし未殺菌針の使用を防止するのではなく、監視するのだ。麻薬やセックスを強いて潜行させるシステムによって、でっちあげられた状況のために、伝達が人目につかなかったのである。同時に、異常性欲の可能性がありそうな人物を同定し登録する方法がVD[性病]や救急診療の記録や、接触追跡法、周辺人物のゲットー収容およぴ彼らのための局在的国家経営保護施設に組み込まれた。伝達および同定の状況が時宜を得たときになって初めて、エイズがその流行源たるHIVから生みだされることになったのである。このウィルスは、大手を振って勘定に入れられるまで、気づかれずに広がちなければならないのだ。国際公衆衛生の役人達の計画では、流行病エイズの間断ない行進を妨げようと明瞭に要求されることはいっさいなく、その結果エイズの道が切り拓かれ、システムによる共謀が死をもって覆い隠されることになるのだ。沈黙:決して語られぬこと、それでも言語にもたらされるべきこと、唯一なるもの、個人、狂気、表象不可能なるもの、表象されてはならぬものの空間、クローゼット。

沈黙:語り得ぬもの、判るけど言わぬが花、無視されるもの、無視されるもので占められる空間、隠されたもの、安全にしまいこまれたもの、カモフラージュされたもの、カモフラージュという安全。

ゲイの人間なら誰でもこの脱構築をやってのける---それは我々の身体に書き込まれている。実際、イヴ・コソフスキー・セジヴィックの『クローゼットの認識論』も示唆しているように、「自己」を刻印もすれば統制もする暗喩化された「アイデンティティー」によって抑圧されている人は皆、目に見えぬという脆い安全を心得ているのだ。アイデンティティーとは可視的であること、テクストの産物、そしてコミュニティーと破滅双方の条件なのだ。クローゼットとそこを占める同性愛者は、管理国家のつくった言葉の綾、さまざまな身体から成る流動的集合をもつ、お手軽で抑圧的なイデオロギーの産物にすぎない。しかもその身体たるやたやすく簡単に、衆人の目にするところで屈辱を与えられ、なぷりものにされ、逮捕され、電気ショックをかけられ、狂気に追い込まれ、殺され、エイズという見せ物にされるのである。

科学:合理性、客観性、確実性、政治には手の届かぬもの、専門家、微視可された一望集中監硯的視線。
科学:救済者、超越的言語、ゲームの規則、ゲームそのもの、生命の証人、差異の分類化。

¥またしても、ゲイの人間なら誰でもこう教えてくれる。我々の身体は科学によって書かれている、と。少なくとも十九世紀中葉から我々は可視的な差異によって精査された---最初は生殖器、次いで情欲、ホルモン、遺伝子、視覚器官、遺徳能力。こうした一連の科学的運動はつねに「女性」の本質的属性のとらえどころのない追求と連動して起こった。ホモセクシャリティ(および女性性)は不安定な異性性、男性性の境界を安定させた。男性のホモセクシャリティはヘテロセクシャリティに先行し(文字どおり、医学用語でホモセクシャリティは十九世紀に最初に起こった)、男性性を規定し安定させるために組み込まれ定着した。女性の「倒錯」は、近年レズビアンの殺人の増加も示すように、いまだに男性性を不安定にする脅威となっている。

こうした同性愛的身体はその沈黙から科学の言説へ向けて語りだせるだろうか。我々は自身のエイズ経験について語り得るであろうか。

エイズとともに生きる人間---ことに同性愛者---は科学の言説に向けて発言することによって告白の幻想を生みだすが、これは隠された願望が公に表象されたものだ。HIV抗体検査はとりわけ同性愛者の身体になりかわって語り、エイズをもつ人物はこのウィルスになり変わって語り、喋るウィルスとなる。科学は検査によってその確実性を主張するが、結局のところ検査は解釈のための告白に依存している。政府のガイドラインによれば、カウンセラーは、巧妙な質間によってその人物が感染に対して高リスクか低リスクかをまず決定することになっている。その人物が「高リスク」と受け取られれば陽性結果はそのまま通る。その人物が「低リスク」と考えられれば、陽性結果は潜在的偽陽性とされる。

ロック・ハドソンがエイズをもつ人物の代表となる以前の(もっともハドソン自身は決して公で自分の病について語ったことはない)この流行病の最初の数年間、エイズと共に生きる人々はしぱしぱ、主流報道機関がこの流行病について報じることを拒絶したために作りだされたブラックホールにむかってもっぱら語っていた。科学はエイズの謎を解く---ノーペル賞ものの課題---ために、エイズをもつ人々とその友人たちの話を必要とした。多くの男性(およびいくらかの女性)は、症候を述べたり、強烈で複雑な性生活の立ち入った詳細についての長い疫学的質疑に答えて、すすんで自分たちの病気や生活の証言を提供した。だが科学はひとたび情報を得てしまうや、エイズと共に生きる人々の話にもう我慢できなくなってしまったのだ。エイズと共に生きる人々はお返しに何らかの情報が欲しかったのに。たとえば、いつ治療が始まるのか? 処遇はどうなるのか? 費用はどのくらいかかるのか? しかしエイズと共に生きる人々の言説からひとたびこの疾病が探りだされるや、ひとたびHIV発見され、同性愛者の身体がなくても実験室で演じられることが可能になるや、科学はもう、その言説を聞こうとは思わなくなったのである。

それにしても、エイズと共に生きる人々はさほど長くもたないものだ。彼らの言説は早期死亡に起因する抑圧や、処置が遅れず教育が与えられていれば避けられたはずの感染に対する論評に移った。次いでメディアが割り込み、エイズをもつ人々やその友人たちの生きた経験を人情味あふれる物語に仕立てるごとによって、新たな言説をとりこんだのである。そうした物語は大量無差別虐殺に加担している社会に必要な感情的な免罪の役割を果たした(こうしたパフォーマンスはエイズに限られたものではない)。メディアは英雄的犠牲者と献身的ボランティアを誉めちぎった。だがそうしたところでエイズをもった人物は死亡し、しかも、それは当然と言えぱ当然すぎることであった。エイズをもつ人々は結局は常に沈黙させられ、彼らの言葉は罪滅ぽしの解釈に引き渡されるのだ。

彼らは皆同性愛者であり、つまはじきであり、それでも口をつぐもうとしなかった、だから彼らは死ななけれぱならなかった。

だがエイズ活動家達は倦まず彼らの発言を追い求めた。エイズ活動家達はパラドクスに直面した。つまり、一方では沈黙は死と等しいが、公的な発言---抑圧からの救済を求めての発言---はもっとも手痛くエイズに侵された人々には、まさに情報操作のシステムと科学知識の政治学のために不可能なのだ。彼らの言葉はデータとして、お涙項戴として、自己本意な不平として、市民権の政治づいた要求として、それも言うなれば公共の安全に御厄介をかけながら、許されているにすぎない。これが、単一権力であれネットワークの権力であれ、権力の言説の中で働いていると目される一切の発言が、科学やメディア、政治家たちによってからめとられる状況だった。残された唯一の発話形態はさまざまな合法的言説の狭間にある形態、たとえば、アートの言説に近づくものであったが、そのアートも抵抗する身体のアートだ。科学、いやむしろ科学的言説による政治的なるものの支配、はHIVと共に生きる人々と死を等しいものにしている。沈黙、いやむしろ、今や「リスク」と規定された快楽の行為へと身体をそそることを恐れて教育者が語れずにいること、のために特定の階級の人々は、我々の生命を護る情報---安全なセックスや注射針の衛生状態についての---を獲得できずにいる。そしてこれは情報工作による死として描写されるしかないのである。

*この稿はシンディ・パットン著『エイズを発明する』からの抜粋である。
from Cindy Patton: INVETING AIDS ; pp.100-104. pp.128-131
◎1990 by Routledge, Chapman and Hall, Inc.


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