鈴木志郎康

『ドン・キホーテ』とばったり出合う

仁王立ち倶楽部014(1986年12月発売)

 つい最近『ドン・キホーテ』を読む気になった。

 それというのが、書店フランス図書の棚にジャン・カナヴァジオという人が書いた『セルヴァンテス』という本があって、手に取った瞬間、

「あっ、そうだ、『ドン・キホーテ』というのがあったのだった。」

 と、ひらめきのような感じに打たれたのだった。そして、その近くにウラジミール・ナボコフの『文学。・ドン・キホーテ』という本もあるのが目にはいった。

一つの書棚に『ドン・キホーテ』の著者と、その作品についての本が現在のこの日本のフランス語の本を売っている店で並んでいるなんて、殆んど奇跡に近いことだと思ったのだった。こういう稀有なことは逃すべきではないと、思ったが、二冊買うと、一万三百二十円になるので、その場では『セルヴァンテス』と、もう一冊の『彼自身によるセルヴァンテス』という小冊を買った。

 「そうだ、『ドン・キホーテ』だ。」

 という思いは、昨年ダンテの『神曲』の通読に失敗しているので、今度は何とか「あの空間」に足を踏み入れるチャンスにしたいという気持ちから出て来たともいえそうだ。家には、岩波文庫の『ドン・キホーテ』が正篇続篇合せて六冊が、地下の傾斜書棚のの右から二つの、下から三段目の奥まったところに置いてあった。そして、その第一分冊を翌日から二日目に読みおえた。『ドン・キホーテ』のもとの題名は『奇想驚くべき郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』というのだった。「奇想驚くべき」とは何と、今の自分にぴったりだろうか、と思った。気に入った。この気に入ったことについては、丁度その時、別に書くこともないが返事だけは出したい手紙の相手に近況に持った気分の「気に入った」こととして、書き送った。書店の書棚で『セルヴァンテス』という本、その本の表紙はセルヴァンテスの肖像画だったとはいえ、それを見て、衝動買いしていきなり『ドン・キホーテ』を読み始めるなんていうのは、「奇想哀れむべき」こと以外の何ものでもない。

 ところで岩波文庫の『ドン・キホーテ』を読み出して、『ドン・キホーテ』そのものに入る前に、驚かされることが二つあった。その一つは「はしがき」だ。翻訳者の永田寛定という人は、翻訳の話がきまってから二十年間も手をつけなかったということが書いてある。そして、その間に話をきめた、岩波書店の社長は死んでしまう。しかも、この永田氏は『ドン・キホーテ』全部を訳すことがなく死んでしまい六分冊目の続篇の三は別の人によって訳が完結するのだ。第一分冊の発行は一九四八年六月二十日となっており、第六分冊は一九七七年二月十六日となっているから、二十九年間も、いやその前の二十年を加えると、ほぼ五十年も『ドン・キホーテ』の翻訳にかかわっていた人がいるということになる。それから、約七十ページ余りの解説がついているというのも立派だと驚かされる。そういう、時間と手間を掛けて「古典」というものを取り扱うっていうのが、「岩波文庫」なんだと改めて感じ入るね。これじゃ、『ドン・キホーテ』を読むまえに、へこたれてしまう気分になる。書店の書棚で得た「奇想」なんかどこかに飛んで行ってしまいそうだった。

 ところが、『奇想驚くべき郷士ドン・キホーテ』の話は読みはじめてみると、やっぱり妙な本だ。ドン・キホーテという存在はこりゃ何だい、ということになる。今流の考え方にしてみると、自分では自覚していないが一種のパフォーマーだよ。きたない街頭宿を城に見て行動する。風車を巨人と見て槍を片手に立ち向かって行く。その他、行く先々での行動では、打ちのめされ、怪我をして、血だらけになっても続けて行くというのはどう見たって、残酷パフォーマンスだ。彼は夢中になって読んだ騎士道物語を信じ切って、自分もまた騎士だと信じて行動しているのだけど、狂気に陥っているには違いないが、風車が風車であり、羊の大群が羊の大群であることは見ているのだし、自分の目に風車にみえ、羊の大群に見えるのは、相手が妖術を使ってそう見せているのだと考えるのだから、決して狂人ではないのだ。風車を巨人が変身したものと見て果敢にも打ち掛って行くのと、風車はもともと風車なのだからとそのまま見過ごして行くのと、どちらが生き生きとしているだろうか。ドン・キホーテのやってることは、四、五歳の子供がゴッコ遊びに夢中になって、アニメやお話しのキャラクターになり切っているのと変りがないようなところがある。しかし、ドン・キホーテは子供ではない。「わが郷士は年が五十に近かった」というのである。五十歳近くなって、子供のようにやれるなんて、素晴らしいことの

ように思えないだろうか。そもそもドン・キホーテは田舎の生活に退屈して、夜も日も明けず騎士道物語に読み耽って気がおかしくなったとされているが、ことばを頭に詰め込んで生き返ったのではないかと思えるのである。風車を風車と見ていたのでは、ありのままの現実で、彼はそこでは単なる田舎住いの中年男にしか過ぎない。しかし、ひと度自分を騎士に仕立てあげれば、風車はたちまち自分が戦って打ち負かさなければならない巨人の変身した姿ということになり、羊の大群は敵の大軍が妖術によってそのように見せかけているものとなるのだ。そして、いずれにしても、騎士道に生きようとするのであれば、敵に向っては戦いをいどまなくてはならないのだ。そこで、日常の世界で他人からみれば狂人の行いでしかないようなことをすることになる。暴力を仕掛けるのだから、暴力で報いられて、からだを鍛えたこともないような五十近い男では、残酷な仕打ちを受ける結果となるわけである。それは生きようとする者の姿ではあるが、頭に仕込んだのが騎士道物語で、自らを騎士として押し立ててしまったところに、この男の不幸があったといえるんじゃないか。もっとも十六世紀の世の中では、人を途方もない、まるっきり現実から逸脱したような行いに駆り立てるようなことばといったら、騎士道物語しかなかったのかも知れない。それにしても、「驚くべき奇想」を行おうとする者何はというひどい残酷な仕打ちを受けるのであろうか。やれやれである。しかし、『ドン・キホーテ』はくだくだしくて読みにくいところもあるが、面白いね。


鈴木志郎康

「読者限定公開無用雑誌」の発明
仁王立ち倶楽部015(1987年4月発売)

 

 手紙気分になってる。手紙を出したい、また手紙をもらいたい気分になっているということ。昨年は広勉さんとの間に手紙のやりとりあって、記号的界隈の物物交換の部分が少し広がった。広勉さんの手紙にはいつも古い記念切手が貼ってあって、確かに二十円切手が三枚で六十円となってるが、切手屋に持って行けばその何倍かの現金が貰える筈であるのに、そのまま送られてくるところがいい。物的な記号としては写眞が多いが、時にはカードにタバコの金属の空罐に刷ってある騎士の肖像を切り取って貼りつけて送ったこともあった。先日広勉さんからは、一木さんからもらったという仁丹塔のかけらのかけら、そのまたかけらが同封されて来た。ビニールの透明な小袋に入ったそれは、8ミリ×6・5ミリ×6ミリの三角形の、青味がかったネズミ色の金属の小片と、5ミリ×3ミリの固まった塗料の断片であったまずは、微細なゴミ片であるが、伝えに伝えられた仁丹塔のかけらということになれば、やはりそれなりに丁重に扱わなくてはならないから、他の手紙と共に透明なビニールのファイルの中に納めた。わたしは、この手紙の返事に、『汁屋走−SHIRUYASU』なる題の「読者限定公開無用雑誌」を一部手製で作って送った。

 この読者限定雑誌というのは、和紙で表紙を入れて十二頁、本文七頁、目次一頁の小冊子で、二つ穴を空けコヨリで綴じたものだ。内容は、記事として、当の広勉さんから「かけら」を貰ったこと、また「状況」「詩の断篇」「日記」を下記、最後の頁には「日記」でふれた鞄をポラロイド写眞に撮って貼った。奥付に、発行者月日を記したことは勿論だが、特に限定した読者の名前、つまり広勉さんの氏名を書いて「公開厳禁」とした。『汁屋走−SHIRUYASU』第一号はかくて、広勉さんに送ったのだった。広勉さんには、手紙の返事として、この極私的雑誌の二号三号が続けて送られることになるだろう。

 そもそも、こんな極私的雑誌を思いついたというのは、この五年来文通が、続いている谷子さんに送った手紙に『笑府』の仲にあった笑い話を書き移したのだったが、それを、谷子さんは「笑い話」つきの手紙と理解して、返事に更に想像を広げて、「笑話」ばかりでなく、他の記事なんかも入ったプライベートな雑誌があったら楽しいのではないかと空想し、小学校の頃にそんな手作りの雑誌をやったということが書いてあった。笑話を手紙に書きこむというのは、昨年の暮頃からのことで、それは黄表紙とか江戸小咄などを暇があると、というより原稿を書かなくてはならないと思いながら書けないでいるその空白が生じると、手に取って読むことになったということで、鳩を数珠繋ぎに取る、なんていうのは気に入って、会う人ごとに吹聴しているけど、それというのは「鳩をとるには、糸のさ

きへ白まめを一つぶしっかりと結ひつけ、其豆へ巴豆(インド原産の植物。種子から巴豆油をとり、猛毒で下剤に用いる。)といふ物をぬって置くと、はとがその豆を食ふとぢきに腹をくだし、たちまち糞にひり出す。其豆を又ほかの鳩が食ふて糞にすると、だんだんに外の鳩が食っては垂れ、食っては垂れ、とんとじゅずつなぎにして、とります。
 鳩の数は、なんでも糸の長さ次第。
 但シ十疋め十疋め巴豆をぬり足してよし。」というので、『虚言八百万八伝』あり、絵も描いてある。渋谷のガードの下や上野公園なんかで群れた、鳩を見る度に、ふと一度に捉えてやりたい気が起きるが、その気持をよくも出鱈目話に仕上げたものと感心したわけで、そういう笑話を手紙に書いて送りつけていたが、こういうのはどちらかといえば頓智で、中国の笑話の古典である『笑府』になると笑いはもっと激烈になるのだ。ついでに一つ。「お役人が裁判をしているとき、お白州の大勢の中からブッと一発聞えたので、『今のは何の音だ。召しとってまいれ』。下役人が『つかまえられませぬ』と申し上げると、『目こぼしは許さぬぞ、ぜひとも召しとってまいれ』。捕手の下役人、糞を一つ神に包んで来て、『主犯は逃げておりましたから、身内の者をこれに召しとってまいりました』と」。

 わたしが手紙を送るといっても、用事の手紙ではなくて、「前略」と「草々」の間に何かことばを書けばいいようなもので、部屋の中に坐っていてふと頭に浮んで来た知人がいて、ことばを届けたいと思ったら、もうそれで「前略 今日は雪が降りそうですね、枯枝が寒気を感じさせますね、草々」とようなもので、何書いても同じなので、「笑話」もつけた、少なくとも笑いを共有できるということで、それが文字の空間を物化させることになって、谷子さんの想像力を刺戟したというわけなのであろう。それで早速、谷子さんには『白屋子という読者限定雑

誌を作って送った。こちらの内容は、「創刊の辞」と「日記」だった。全紙大の和紙をトーキューハンズで買ってきて、八分の一に切って、これを半分にして二頁。何色か色のついたのを表紙や中に挾んで変化をつける。一頁五行で、筆書きするから、ほんのわずかなことを書けばすぐに八頁なんか埋って出来上がってしまう。谷子さんに一冊作ったら、そうだこれは、広勉さんに送っても面白がってくれるだろうと、『汁屋走−SHIRUYASU』を作ったのだった。

 これは、単に手紙を書く以上に気分が盛り上がった。手紙も筆ペンで書くなど、変わったことやる気にしているが、雑誌となると、作る気が大きく働いてくるのが気分を盛り上げることになるのだ。わたしは、作るのは好きだが、発表は気が重い。世の中が出たがりの人の多い時だ

けに、発表は気が重くなる。それが、この「読者限定公開無用」雑誌は、書いて作ることに熱中できて、送る相手は一人だから気軽だし、手紙とは違って書く内容に広がり出てくるし、公開を前提としないから、解放された気分でなんでも書けるような気になれる。これは「媒体としては新発明だといえるのではないか。谷子さんの手紙には、パソコン通信に熱中してると書いてあったが、そういうハイテク・メディアとは丁度対極をなすということになるのではないか。そう思うと、ハイテクの向うを張っているというので実にいい気分にもなるのだった。それから、さとう三千魚君と電話で話していて、この極私的雑誌のことを話したら、「ぼくにも下さいよう」というので、貸していた写真集を持って来てもらった時に、彼向けの『知乎寧−SHIRUYASU』第一号を作って渡した。その内容は、最近ちょっと手にしたアントナン・アルトオの詩集に接近する過程を語った「アルトオへの私道」と題するメモ書き的文章にしたのだった。最後のページには買い求めたアルトオ全集をポラロイドで撮って貼って置いた。アルトオについては、公開文では書く気はしないが、三千魚君になら、書けるから、続けられる。そういえば、今、『枯れ搦めて』という映画を作っているけど、出演して気圧の女神になってくれたトシコちゃん、温度の女神のチカちゃん、湿度の女神の筈のヤスコちゃんにも、それぞれ、『舌出し気圧計』『恥かしがりの温度計』『熱を出した湿度計』なんていう雑誌を作ろう、と思っただけで、胸がわくわくしてくる。


鈴木志郎康

映画『オブリク振り』のこと
仁王立ち倶楽部016(1988年5月発売)

 私はいま『オブリク振り』という映画 を作っている。「イメージフォーラム・ フェスティバル・1988年」に出品上映するためである。「イメージフォーラ ム・フェスティバル」は4月28日から5月10日まで渋谷のシードホールで開かれる。このフェスティバルには日本、イギリス、アメリカ、西ドイツ、イタリアの実験及び個人映画とビデオ作品と合わせて100本あまりの作品が16のプログラムに分けて上映されることになっている。私の映画もそのうちの1本とし て上映されるわけだ。実験映画とか個人 映画というのは、実にバラエティに豊ん でいて、映像の好きな人間なら、見てい て飽きるということはない。

 さて、私の『オブリク振り』という映画だが、「オブリク」という言葉が、去年の暮頃から気に入って、詩の題名や、 その他にも自分の現在の表現を考えると きによく使うようにった。「オブリク」 は「Oblique 」である。「ななめ、遠まわしの、よこしまな」という意味のラテン語系の単語だ。私の場合はその「ななめ、遠まわし、よこしまな」という意味を、もうひとつ喩的な意味合いにして、それでいまの自分の「表現」ということ に対する気分の表明ということにしているのだ。全く主観的で、その気分の内容 が作品ということになる。

 では、その『オブリク振り』というのはどんな内容なのかというと、抽象的ないい方としては、具体的にフィルムによる映像を並べて行くものということで、具体的に映像の内容を語らないと解らないし、また映像の内容を具体的に語ると殆ど理解されないという破目になる。しかし、映画そのものを見たら、そのままそっくり受け止めて貰えれば、それがそのまま私の気分であり、内容というわけなのだが、そのまま受け取って貰えるなんてことは絶望的なことで、いくらかここで語ってみたい。そうだ、この文章は映画と平行しているものとして読んでほしい。

 タイトルは赤い紙の上にアクリル絵具を横塗りして、絵筆で書いた。実際、赤で入ることが気に入った。それは、次にこだわりの対象になるハイビスカスの花の色に通じて行くからだ。私の住居の内部の窓際にハイビスカスの鉢植えの木があって、その花が真冬の一月に咲いて枯れた。それを枯れるところまで写真に撮ってあったのでそれをオーバーラップで連続的に変化させる。それを内的なものとして、透明プラスチックを通して見た。枯れたハイビスカスの花っていうのは、萎えた男根を思わせるところがある。男根のミイラという感じだ。そこで、次にそれに活を入れるという意味合いで、サドの小説のイラスト、集団での性行為が描かれているのを見せる、というより見るわけだ。そして動きだしたというところで、マイブリッジの運動分解写真(locomotion) をコマ撮りしてアニメ化してみた。ここのところはアクセルを踏むというところだ。アクセルを踏んで動きだしたところで、若い女性詩人の川口晴美さんを訪ねる。彼女は既に結婚しているが、勤め先では日々百万ドル二百万ドルという金を動かして外国為替の売買をやっているというのだ。それで詩も書いている。そして更にスピードに乗って、東北新幹線を経て、仙山線を北上して、山形の山の中で乳牛を飼いながら詩を書いているという岸利春さんを訪ねる。牛飼いなんかやってるからお嫁さんの来て手がないという。農産物の自由化となれば、2頭から24頭になった牧場もやって行かれなくなるという。しかも、もう、詩を書かないではいられないというのだ。岸さんの家のある山の眺めは、いわゆる雪景色という奴で、気分が晴れるのだった。最後は、内から外へ出て行くという気分を辿って来た、家に戻ってみれば、あの枯れたハイビスカスの、あの男根のミイラのイメージが木になるといったところで、終るのである。人間が接して生きてる「外側」っていうのは何か奇怪なものだけど、その「内側」にいると、そんなふうには感じない、というのが作者の感想だ。



鈴木志郎康

「風の積分」と「L虚空間」
仁王立ち倶楽部017(1989年2月発売)

 寝ころがるのが気持いい。ソファの上にクッションで少し頭を高くして、躯をよこたえて、眼を瞑ったり開いたり、眠るのでもなく、考えに集中するのでもなく、思いのままに、意識を遊ばせている。とりとめない。ここにあるわたしは何であろうか。家族のことに行き着くこともあるし、読んでいる本、以前読んだ本、または現在自分が書いている「詩」、あるいは現在自分が撮っている「映画」に行きつくこともある。そして、起き上ってこれから取り掛るべき「原稿」の内容というところに行き着くこともある。実際、今しがた先程までそうしていた。荒井さんから何度も電話を貰っているから今日こそ書かなきゃね、と立ち上ってきたところだ。やっぱり、撮影中の、仮に「風の積分」と題をつけた「映画」の事を書こうかと思って立ち上って来た。南西の空に向けて、隣家の屋根の上に広がるというか、枠づけられた天空を、1988年の7月1日から駒撮りで、3秒置き、1分置きに、フイルムが切れてしまった時以外には、ほとんど途切れることなく撮影を続けている。現在も、今も、カメラはシャッターを切っている。もう6ケ月目に入っているわけである。上映すると妙な感じになる。1日がおよそ1分間ぐらいに過ぎてしまう。その間に、雲が激しく動き、雲のない日は太陽がまたたく間に沈んで行き、夜は長時間露光にしてあるから、その間は隣家の姿や、夜の空の雲や、時には月が動くのが写っている、といったような映像の連続なのだ。最初は3ケ月ぐらい、空き地になったところに隣家が建て終るまで撮ろうかと思っていたのが、昭和が終るまでと4ケ月を過ぎて、では6ケ月と思い改めたが、どうせなら1年撮ってしまおうと思うようになってきた。これが、見て、どんな意味があるのかわからない。ただ1日が1分、夜も入れると1分半ぐらいで終ってしまうというのは、すごく気持がいい。この気持のよさは何だ、というところまで来ている。

 ソファに躯を横たえているところに戻ろう。躯を横たえていて、その横たわっている自分の身体を斜め上から見るような想像をする。すると、「ああ、自分は一個の身体なんだなあ」という感想が湧いてくる。まるで、道の通りすがりに野生のものを見たような印象である。それが昆虫であっても、植物であっても、動物であっても、あるいは茸類であっても、外側から個体として、または個体の集合として、または集合体の中の個体として、見ることになる。外形だけが問題だ。手にとって外形を破壊して、内側を見ようとしても、決して人間が持っている内面のようなものを見ようとはしない。人間以外の生命体が内面を持っていたとしても、知ることはできない。わたしらは、花の形、昆虫の習性、動物の反応などに満足するだけだ。そんな野生の生命体に接するような視線で、ソファに横たわっている自分の姿を想像すると、それは動物の一種なのにとても動物には見えない。だからといって、昆虫に似ているともいえないし、茸などの菌類には譬喩することはできても、印象は全く違う。ベロンと長く伸びている「オレのこのカラダは何だろう」ということになる。人間以外のものは、姿と動きが生命をまっとうする活動と結びついているが、人間の姿と動き、特にソファに長くベロンと伸びている姿などはとてもそうは思えない。それにも拘らず、やはり生きているのは「躯一つ」なんだというわけ。

 そうだ、その「躯一つ」の頭には目覚めていればいつも言葉が去来しているのだ。それがやっかいなことなのである。多分、ことばを書き止めようとすることのない人は、ことばを花のように、昆虫のように、また動物のように見ることはないであろう。ところが、ことばを「自分の」として書き止めようとすると途端にややこしくなって来るのだ。「自分の」何かなど、ことばで伝えることは出来ない。そこで、自然のなりゆきとして、想像したことを何とか読むべき人と共有できる事柄に結びつけなくてはいられない。そこに社会があると信じているからだ。しかし、その社会というのを信じられないところにこそ、ことばによるしかない「自分」は居る筈なのだ。そのことばというのは、他者が理解しなければならないものなのに、他者には自然には理解できないことばになって来てしまうのである。ことばが伝わって行く空間が、空気を介在させない空間ということになる。人が呼吸を止める空間である。だが、それは死の空間ではない。その言い方をすれば、酸素を呼吸しているが故に「死んでいる」人たちとは別の仕方で呼吸して生きる空間の中を伝わって行くことばということになる。それが「自分の」として書き止められたことばではないのか。そのことばの空間のなかでは、酸素を呼

吸することしか知らない人たちはバタバタと死んで行っているといってもいい。もちろん彼らは酸素を呼吸しているから、自分は死んだとは思っていない。でも死んでいるんだ。

 空気を介在させた言葉の伝達とは何であるか。音節とその時間の軸上の近接関係である。それが指示されたものの関係を虚妄として構築するのである。空気を介在させないことばの空間を「L虚空間」と名づけると、その「L虚空間」のなかでのことばの伝達は、その虚妄の構築を解体し、虚妄を遊離させることから始まるのだ。その作業なくして、「自分の」伝達は不可能であろう。だから、やっかいなのだ。昨年辺りからわたしは時折書く詩作品のなかに、「詩人」を登場させて来たが、最近「十問正解」という題の詩を書いて、そこにも「詩人」を登場させたが、こうして考えてくると、わたしのことばによって「自分の」を伝達したい願望が、そのことによって、知らないうちに「L虚空間」の入口に達していたということになるのかも知れない。そこでは、ことばは虚妄を抱え込んではいるが、問題は虚妄と虚妄との関係にあることを提示しているといえるからだ。最近刊行された瀬尾育生の『ハイリリー・ハイロー』も、吉岡実の『ムーン・ドロップ』も共にこの「L虚空間」による伝達を果した故の気持よさといえよう。両方の詩集ではパラダイム平面の交錯がそれを可能にしていたが、わたしの場合は「詩人ストーリー」を作ることでサンタグムを垂直に垂らす軸を作ろうとしているのだといえないことはない。とにかく、気分のよい伝達を実現しようとすると、実にやっかいなことになる。


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