さとう三千魚 

わたしの育児

仁王立ち倶楽部015(1987年4月発売)

 こどもをもらった。
 もちろん、ヒトのコです。あかんぼである。ヒーヒー、泣いたりするやつ。はじめは、不慣れのようだったけど、最近はそこら辺をコロコロしていて、畳のへりなんかを舐めたりしているバッチィからよせっていっても、てんで日本語がつうじない。そんな非国民を、神さまは、くれた。ときどき、あかんぼうはとてもキレイに笑う。ほんとうにまじりっけなしに、おナカの底から、キャッキャッ、笑う。無底に笑う。

 わたしは、神さまにお祈りしたわけではないのに、神さまはくれたというのは、わたしの女のヒトがひそかに祈っていたのだろう、それにしても、一度くらいぼくに連絡くれたっていいじゃんか、とかいうと、君とは回路がないんだよね、と神さまに言われそう。でも回路とは、はじめっから決定されているってことでしょうか、むしろどんどん回路が増殖するような、女のヒトたちの祈りの多産さを男はもちあわせていないから、男たちはいくつかの(あるいはひとつの)強力な回路でセカイを かためてきたのではなかったか、そうした男性的な回路のあみめが、そろそろ通用しなくなっているってことかしら。(でもまだ、十分に機能している。)で、わたし、もう自分の男性性に必要以上の希望、持っていないもん。たとえば強力な回路っていうのはどうしても対象について、思考しちゃいます。対象に十分な距離をとりながらセカイを解明し、論理的に体系化してゆくっていうのが諸科学ありかたでした。で、そういうのは、ぼくは、もう、いい、といっているわけ。誰か、他の人にまかせる。ホントは、対象が対象にとどまらないっていうところまでいかないと、ウソになる。ウソだし、ノンキだ。ノンキはけっこうカワイイけど、ウソはウソにとどまっていたらつまんない。ウソは現実のわたしにつきささってきて無数のトゲになるみたいなウソにならないと、不毛だ。しかも、その現実っていうのが、いまあるままってよりも、新しく生まれるありのままっていうことで、わたしによってめざされているところの現実って場所に、かかわってこないと、不毛です、となると、ことさら対象について考えるというのがウソになってしまう。むしろ対象を対象にすえながら対象しないということが、たいへんひつようになってしまう。ですから、対象が真に対象としてあるときには対象ではありえないということになって、まるで恋のおはなしみたいで、だから、わたしはわたしの育児について、語ってはいけない。たえず、対象を対象をしないで欲望しなければいけない。乙女たちは祈っている。無数の、乙女たちは祈っている。祈り、手淫している。

 バッチィからよせっていっても、てんで日本語がつうじない。ほんとうに、まじりっけなしに、おナカの底から、キャッキャッ、笑う。無底に、笑う。そんなヒトのコを、女のヒトはお腹の中にしまっていたの。

  女は 私に白粉の匂いをかがそうとしているらしい

  ----女・女

  (スプーンがちょっと鉛臭いことありますが それとはちがいますか)  

  午後の陽は ガラス戸越に部屋に溜って

  そとは明るい昼なのです

 尾形亀之助の「昼の部屋」の全文です。どうしたことか、尾形亀之助が読みたくなり、現代詩文庫の尾形亀之助を、めくってみたのである。ほんとうに、まじりっけなしに、おナカの底から、キャッキャッ、笑う、そんんなヒトのコを、女のヒトはお腹の中にしまっていた。なにか、たいへんに、おそろしい。そこには、なにか、たいへんおそろしい、論理が対象にできないような感覚がある。

 わたしは、(スプーンがちょっと鉛臭いことありますが それとはちがいますか)と問われてギョッとしているのだった。明るさの中に、さまざまの色や光がサラサラと流れているのを見なければならない。そとは明るい昼なのであり、ガラス戸越に、彼は昼の部屋の中にとどまっていた。閉じようとしているのではなく、破れている、破れて、開かれようとしている。論理が、論理自身によって対象できないような対象の場所まで、論理によってはこばなければならない。

 尾形亀之助の生の隣りには、死がある。というより、尾形亀之助の死の隣りには、生がある、しかも、本当の生がある。そう、実際に語ってしまえば、ウソになるのか、ことさら、尾形亀之助を取りあげる必要もないのか、それにしてしても尾形亀之助の視線は、低い。低い場所から、すくうようにして、見あげているように、わたしにはおもえるのだ。その視線の先に、明るい昼があるのだ。

 ほんとうに、まじりっけなしに、おナカの底から、キャッキャッ、笑う、無底に、笑う、そんなヒトのコを、女のヒトは、お腹の中にしまっていたのである。なにか、たいへんおそろしい、真に、明るい、無底の生命というもの。それは、女のヒトにつつまれていた。そして、その女のヒトを、他の言葉で言い換えることも、わたしは、しないだろう。

 女のヒトは、ひとつの宇宙的な回路を持って、いる。そのことについて、ぼくは語ることが、できない。エロスについてならば、ぼくは語ることができないわけではないけれど、そのことについて、語るにはぼくは、あまりにも健康で、生産的なのだ。

 彼女は、ひとつの広大な場所なのだった。しかも、ひじょうに残酷な場所なのだ。彼女が、ぼくをつくり消ヒする。本当はその場所を、どこまでも通過していくことが、ぼくの本当の生であり、生命であると思える。じつは、彼女こそ、ぼくなのであり、彼女という広大な残酷な場所を、ぼくは生きなければいけない。そのことに、意味などまったくないのだ。痕跡と、力と、線が、風景をメタメタに切りきざんだ。カッターナイフの刃が、ビュービュー 風となって流れた。

 消えていくものを、しずかに、ささえなければならなかった。いくつもいくつも、消えて、いくものが、あった。そして、痕跡と、力と、線の風景の中で、あかんぼうのように、とてもキレイに、笑った。ほんとうにおナカの底から、キャッキャッ。 キャッキャ キャッキャ 笑った。



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