小倉利丸 

最近富山で起こった二つの『事件』について
仁王立ち倶楽部014(1986年12月発売)

 今年の春から夏にかけて、富山県で天皇を素材とした作品をめぐる表現行為への弾圧が相い継いで2つ起きた。

 簡単にこの2つの「事件」の概要を述べておく。第一の「事件」は、県立近代美術館(小川正隆館長)主催の「'86とやまの美術」に出品された大浦信行「遠近を抱えて」(リトグラフ、10枚のシリーズ)をめぐって起きた。この作品は、--後に述べるように公開されていないので見ることができないので、新聞報道等の写真や記事を参考にする以外にないのだが--天皇の顔写真を曼陀羅風の構図のなかに、女性の裸体や内臓などとともに配したものだ。この作品は、一部を美術館が買取り残りを作者寄贈ということで、全作品が美術館に収蔵されることになっていた。(「事件」後、美術館側の要請で寄贈は取り止めにされた)「事件」が起こったのは、既に展覧会も終った6月県議会の教育警務委員会で石沢県議(自民)がこの作品を取り上げて、「県民に親しまれている」日本の象徴である天皇を裸体や内臓と並べる「不快な」作品だ、と批判した。何故こんな不快な作品を県の機関が買ったのか、というのが石沢の批判の本旨であったようだ。この石沢の批判の尻馬に乗ったのが藤沢県議(社会)だった。藤沢は、7月の県議会本会議の社会党代表質問で再びこの問題を取り上げた。この質問で藤沢は、「作品に描かれている人物の人権をどう考えているのか」と知事に返答を迫るというア然とする様な質問(藤沢には人権概念が全くわかっていないのだ)を発した。知事は、県民に不快感を与える作品を購入したことに対して「陳謝」し、作品は美術資料として保管することにとどめ、公開はしないことを議会の場で表明した。政治権力が作品の「禁書」扱いを公然と決定するということが起ったのだ。

 7月下旬には右翼が全国動員(200名が街宣車に分乗してやって来た)で県教委に押しかけ、作品の焼却処分と館長の解任を要求した--と新聞に報道されているが、事実そうした要求もしたのだろうが、伝聞によると、県教委のオエラ方を日の丸の前に直立不動にさせ、“オマエラハソレデモ日本人カ!”といった精神訓話と恫喝をしたのだという--。もうひとつの「事件」は、社会党が事実上の主催となって開催されている「明日を拓く美術展」(8月初め)で起った。この美術展は、公募で集まった作品のうち審査委員会の入選作を公開することになっているのだが、ここでも、審査委員会が入選とした天皇風刺の油絵が、党の県本部の“政治的”介入で事実上選外にされて公開できなかった、という「事件」が起った。明らかに県立美術館問題への社会党の態度--議会の代表質問で天皇の“人権”を“擁護”したのだからまさに模範的な“護憲”勢力といえる--からみても、党のこの決定は、天皇批判をタブーとしようとする意識に支えられていたことは明らかだ。この政治的な露骨な表現弾圧に対して、審査委員から社会党県本部は天皇制と表現の自由に関して今後キチンと議論を詰めるべきだと批判があり、このことは主催者側も約束したことになっているが、未だにこの問題で党が何らかの対応をしたという話を聞いていない。(言うまでもなく党外にも開かれた美術展をめぐって起こされた「事件」なのだから、党外にも開かれたかたちで議論されるべきだ。)

 戦後の天皇をめぐる表現弾圧には三つのパターンがあったように思う。ひとつは、反天皇制の諸運動が政治的・社会的に運動・闘争として表現する場合--植樹祭や国体に際しての明らかな過剰警備、予防拘束など--に、国家が暴力装置を動員してかけてくる弾圧がある。ふたつ目として、教育現場に典型的にみられるような、日本と天皇の戦争責任を隠蔽しようとする動きである。しかしこのばあいでも東南アジア、中国、朝鮮への侵略、南京大虐殺についての教科書の記述にみられるように、国家はその全てを感情論で押し通すことはできず、事実の裏付けや論理的な説得を何らかのかたちで行わざるをえなかった、という“限界”があった。アカデミズムや左翼の歴史的・理論的な領域での天皇批判が弾圧の対象とされなかった理由はこの国家の“近代主義”“理性主義”にあるが、天皇(制)批判がこの許容された領域で自足されている限り、天皇(制)批判も解体もしえないということも明らかなことである。第三の表現弾圧は、大衆文化と接点をもつ領域に関わるものだ。文学、演劇、美術といった文化領域での天皇に対する、とりわけ風刺的な批判は、戦後も過酷な弾圧にさらされてきた。深沢七郎の「風流夢譚」から最近の桐山襲の「パルチザン伝説」に至るまで、あるいは風の旅団などの芝居の公演への弾圧として、繰り返し表われてきている。大衆文化--あえて民衆文化とはいわないことにするが--領域での天皇批判は、理性や論理をふまえることはあっても、その枠に収まりきることは出来ず、これを超越したところでの質をもつ。換言すれば、身体性のレベルでの批判なのだ。大衆文化のレベルで、とりわけ風刺としての笑いを伴う天皇批判は、明らかに天皇に対する拒否の“暴力”が内包されており、このレベルの批判が多分、最も天皇(制)が内包している質と拮抗しうる批判−拒否となっているが故に過酷な弾圧の焦点になるのだ、といえる。最近、今回の県立美術館をめぐる行政の態度に象徴されているように、政治の公的権力が全面に出てこの領域の表現弾圧に乗り出すようになっている。このことの意味する決定的な重大性は、政治権力による弾圧が論理や理性のレベルにあるのではなく、「不快」とか「県民感情」とかといった主観的な感性のレベルにおいて露骨に展開されはじめた、というところにある。私たちの感性を政治が簒奪しはじめたのだ。“天皇には戦争責任がある”という言説と“天皇は嫌いだ”という言説は密接不可分だとしても、決定的に異なるのだ。前者は戦争責任とは何か、という問いを立てることができ、この問いをつき詰めることでその本質に迫ることができるが、後者に対して何故嫌いなのか、という問いを立てたとしても、それに対する回答は常に答えられない感情的な“残余”によってしか支えられていないということがある。この残余は説得や論破ではなく、暴力的な抑圧と排除・抹殺によってしか対応しえないものだ。かつて日本の軍事的侵略をうけ、現在も経済的侵略を強いられている東南アジアの人々や、少なからぬ日本に住む人々が抱く天皇への拒否は、多かれ少なかれ“天皇は嫌いだ”というレベルによって支えられている。大衆文化の天皇風刺は、明らかにこの平面で、民衆の拒否と直面している。民衆が意図的でないにしても--そして作家たちが意図的に--笑いという拒否の戦略によってかろうじてとってきた天皇(制)に対する距離と溝を、政治権力は公然と権力的な手段で埋めはじめた、ということを今回の富山の「事件」は示している。富山という一地方の「事件」は、この意味でポストモダンの国家が、感性のレベルで、身体性のレベルで、文化というアウラの支配装置を動員して、高度なイデオロギー国家として現われるであろうことをはっきりと予言する「事件」であった。政治権力から自律したポリシーの持てない多くの公共美術館は文化支配のお先棒をかつがされることになろうし、軟弱な闘わない「野党」はますます堕落することになろう。「事件」は始まったばかりである。

 


小倉利丸

富山県立近代美術館のポスタートリエンナーレヘの不快感

仁王立ち倶楽部017(1989年2月発売)

 昨年の夏に大浦信行氏の作品公開を求めて、「NO!ARTAPARTHEID」という集会をもった。この集会は、アパルトヘイト反対の集会と間違えられたりしたのだが、実はこの集会のタイトルには、二つのいみがこめられていたのだった。ひとつには、いうまでもなく、天皇の肖像写真を利用した大浦氏の「遠近を抱えて」が、公開の場から隔離され幽閉されているという富山近代美術館におけるアートをめぐる隔離政策への反対の意思表示のいみがあった。もつひとつには、この同じ県立近代美術館がちょうど同じ頃に「第2回世界ポスタートリエンナーレ1988」という展覧会を開催していたことと関わる。このエッセイでは、後者とのかかわりで考えていることを書きたいと思う。

 このポスタートリエンナーレは、公募展で、世界中からポスターを公募し、入選作品360点を展示したものだ。この展覧会では、文化、社会、公共をテーマとしたA部門と商業ポスターのB部門に便宜的に分けられているが、A部門にも企業ボスターが多数あり、その区別は厳密ではない。そもそも、こうしたAB部門の分割という発想が、企業の文化戦略のもつ現在的な位置をとらえそこねており、美術館サイドの現実認識の遅れが如実に現れている。この展覧会は地方自治体の機関で主催されたにもかかわらず、後援は「社団法人日本グラフィックデザイナー協会」であり、協力がYKK吉田工業や大日本印刷であり、このことに少しでも実質的な意味がもたされているとすれば、明らかに企業サイドに有利な展覧会にしかならないことははじめからわかりきったことであり、そうだとすれば、この展覧会全体が企業の文化戦略の延長線上に位置すると解釈されてもいたしかたない。ところで、このこうした展覧会のA部門で、金賞を獲得したのがグラピュース(フランス)のアパルトヘイト反対のボスターだった。このボスターは黒一色の手描きで、多色刷りで金をかけたポスターが多いなかで確かに異彩を放ってはいた。南アフリカを「世界の癌」としてアフリカの地図から切り取り、アフリカ大陸を頭蓋骨にみたてた構図は単刀直入でたれにでも判るストレートなメッセージとしての力がある。この展覧会では、こうしたアパルトヘイト反対のポスターや反核ポスターが企業のポスターと肩を並ぺて展示されている。アパルトヘイト反対もあれば、アパルトヘイトを支える日本のトヨタなどの企業ポスターもあるというわけである。僕は、このポスタートリエンナーレを2回見に行った。

 僕は、この展覧会にひどく違和感を覚えざるをえなかったし、不快な気分にもなった。それは、アパルトヘイトを批判するポスターを金賞にする主催者の選択意思の中で「アパルトヘイト」という事態がどれほどの「意味」をもって捉えられていたか、理解に苦んだからだ。アパルトヘイトを批判するポスターと同じ空間に、それを支える企業ボスターも展示される。両者とも同じ審査主体が選択したものだ。政治や企業宣伝とはまったく切り離して、純粋に芸術的な観点からポスターを見ることが可能ならばそれも一つの方法だろう。しかし、アパルトヘイトのポスターから「アパルトヘイト」の意味をとりさってしまえば、アフリカ地図を頭蓋骨にみたてるお遊び以外に何の意味もなく、Apartheid、Raicismeというメッセージ--ついでにいえば、これはパンフレットでは「人種差別制度/民族主義」と訳されているが「人種隔離政策/人種差別主義」とすべきものだ--も意味レベルゼロの記号にしかなるまい。そんな作品が金賞になるとはおもえないわけであって、そうとすれば「アパルトヘイト」の意味とメッセージは実質的になんらかの考慮の対象にされたに違いない。しかし、他方でまたアパルトヘイトを支える企業ポスターをも選択しているわけである。この両者をともに成り立たせる審査の基準とはいったい何なのか。端的に言ってポスターというきわめてメッセージ色の強いアートを対象とした展覧会であるにもかかわらず、それにたいする基本的な構えがまったく理解しがたかったのだ。それはまた、天皇の表現が「県民感情」にそぐわないとして非公開にするような見識しかもたない美術館が、他方でアパルトヘイトに反対するポスターを金賞にするということがいったいどのようにして可能なのだろうか、という素朴な疑問に僕を導いた。アパルトヘイトは、あの中途半端なハリウッド映画『遠い夜明け』を引き合いに出すまでもなく、厳しい表現行為への抑圧の制度でもある。アパルトヘイトを批判するということは、同時に表現行為の自由への加坦を表明することでもあるはずだ。これに匹敵する日本の禁忌を探すとすれば、天皇についての表現以外にありえないだろう。天皇の表現について非公開を貫きつつ、その自らの汚れた手でアパルトヘイトを批判する作品に金賞を与えることは、アパルトヘイトに傷つき命を奪われたおびただしい人々への冒涜としか思えない。作者のグラピュースは大浦間題を知っていたとは思えないが、この事件を知っていたとすれば彼は、この金賞を喜んだだろうか。僕は、この疑問を大浦作品の公開を求めるビラのモチーフにした。真ん中に大浦作品を縄で縛ったものを置き、右上に金賞をとったアパルトヘイト反対のポスターを、左下に南アフリカ進出日本企業の一つトヨタのポスターを配置した。そして、アパルトヘイト反対のポスターを金賞にしながら、アパルトヘイトを支える企業のポスターも展示するというのは政治的に無節操ではないか、というキャプションをつけたのだった。

 ところでこのビラは、美術関係者からは評判の悪いものだった。つまり、あまりにも物事を政治的に判断しすぎるというのだ。もし僕のような批判を受け入れるとすれば、アパルトヘイト反対の作品を展示する以上、それに賛成する作品は展示できないし、展示すべきでないということになる、それは、右翼が大浦作品を展示するな、と言ったことと論理的には同じであり。右翼の論理を逆立ちさせただけのことではないか、むしろ、政治的に無節操であることのほうが、美術的な表現の自由にとって必要なことではないか、というわけである。政治的無節操という僕の表現は確かに誤解の種だった。むしろ、「あまりにも政治的だ」というべきだった。それは、芸術は政治から自立すべきだといいたいのではなく、審査員の個人的な意思や美術館の意図を越えて作品が展示された空間がいやおうなしにまとわざるを得ない宿命としての政治性である。政治を政治家による統治の行為とか、主権者による公的な約束事の決定にかかわる手続きだとみるのは今では見当違いであろう。政治が、大衆政治として、あるいは福祉国家の政治として展開されればされるほど政治の私的な領域への介入や個人の感性への介入は著しくなる。政治がかつてのように議会制民主主義の健全な信頼によって正当性を保障されていた時代が過ぎ去り、その茶番が全ての人々の前にあらわになった現在、行政は自らの統治の正当性を議会制民主主義に求めるよりも大衆の「文化意識」にうったえかけることによって精神的な同一化を目指すことの方を選び取るようになっている。産業の基盤が情報化、サービス化しつつあることとも一致した動きである。

 すでに高度成長の時代にみられたことだが、モノの商品としての意味がその機能性から非機能的な「イメージ」へと移行するにつれて、広告やデザインはこの「イメージ」に焦点をあてるようになった。ボードリヤールが、商品というのは単一のものとしては存在しないでシリーズとして存在すると言っているところに典型的に示されているように、商品は、その機能の外側へ向かって広がる「イメージ」と消費者の抱く生活や仕事のトータルな「イメージ」との協和/不協和のなかで選択されるのである。こうした社会が消費者としての個人の生活や価値観に企業が多大な関心を抱き、企業がモノのたんなる生産者であることから生活様式のイメージをまるごと創遺する意識産業へと転換して行くことも当然といえる。こうして企業は、他者との同一性を了解し合えるコードとしての文化に深くかかわることなくしては資本の論理を貫徹することもできなくなっているのである。こうした社会的な文脈の中に、たとえば富山県立近代美術館はその「意味」を紡ぎだしているのである。

 作家個人の意識がどのようなものであれ、作品は作品として自立できない運命にある。作品は関係の産物だからだ。そして美術館という空間は、この関係を組織する装置としてある。アパルトヘイト反対の作品がアパルトヘイトを支える日本の企業ポスターと同一の空間を共有するということは、いわゆる街角で反体制のポスターと企業ポスターが共存することとはまったく意味が違うものであった。理念的に言えば、街角にはこの両者を組織する統一した意思など存在せず、そこには常に両者の関係の緊張がはらまれており、それを見るものの位置がこの緊張関係の中で問われるのである。ボスターとは利害を異にするものたちの闘争や競争の武器であり、見るものの感性や意識を操作する洗脳の機械なのだ。しかし、それらが緊張関係をはらみ、判断と行動の決定権を見るものにゆだねられている状態、あるいは見るものが主体的に自らのメッセージを描き加えられる状態(落書きであれ、あらたなポスターの掲示であれ)は健全な状態である。しかし、美術館にはこの両者を統一して組織する主体があらかじめ存在するために、こうした緊張と変化は排除されている。同じ物が美術館では異なる「意味」をはらんでしまい、健全な闘争状態は最初から調停されてしまい、平和共存を強いられる。(同じではないが似た違和感を西武美術館でのロシア・アバンギャルド展で感じたものだ)私達は、テレビで「現実」を見るように、受動性を強いられ、ポスターのリアルなメッセージがはぎとられその記号だけが消費されることを強いられるのである。これこそが、この受動性と価値判断停止こそが実は現代の政治の典型ではなかろうか。そして、停止されたその瞬間からポスターのもつメッセージとしての機能も剥奪され、作品はその作品のもつ本来の「意味」を美術の名において抑圧される。それは、一見して美術を政治とか社会とかの面倒な事柄から自立させる手続きのようにみえて、その実、まったくそれとは逆に政治的な調停の文脈の中で作品が本来発揮すべきメッセージが抑圧されたのである。作品のもっメッセージヘの無関心こそが、アパルトヘイトの反対と支持を併存させることへの無関心とつらなり、ミクロなポリティックスの装置としての美術館をなりたたせてしまうのである。そして、実は、先にこうした美術館との比較で述べた「街角」そのものもいまや、ある種の企業と行政のミュージアムになりさがり、見るものの介入を阻み、見るものとの緊張関係があらかじめ排除された組織された空間に変容している。それは、緊張を産みだす一方の極をあらかじめ削り取るか---大浦作品のように隠蔽されたり、街頭のビラ張りで容易に逮捕されるという現実---、緊張を調停可能な範囲のゲームに限定するように働く。そこには、僕らの自由な振舞の余地もなければ対象との確執もない。だから僕が、ポスタートリエンナーレで感じた不快感とは、なにも美術館への不快ということにとどまるのではなく、この世界への不快でもあったのだ。


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