丹生谷貴志

現代思想における〈形而上学〉的ニヒリスムとユダヤ的ニヒリスム

仁王立ち倶楽部015(1987年4月発売)

 朝日新聞が昨年の末から夕刊で現代思想の現状といった様な連載をおこなっている。名を忘れたが、フランスの若手の何とかいう思想家や、ジャン・フランソワ・リオタールなどが顔をだし、またイギリスの右翼的な運動などのリポートなどが含まれている。これとは別に今村仁司氏やサイードらのインタビューなども散発的に掲載されてた。・・・・これらを読んでただただ私は暗澹とした気分になるしかない。

 これらの発言全てに共通していることは、要するに、或る種のニヒリスムである。世界から今やあらゆる意味で、目的も価値も消え去ったという確認があり、この無価値性をどう生きて行けばよいのか、これがその問いの中心にある。今村氏はそこで、たぶん美的な生のかたちが切実な問いとして残るであろうと、と予言し、リオタールは、この無価値であるという事態を救いとして捉えようと提案し、何とかいう若手は、新たな伝統主義とでも呼ぶべきものを再興することを提案する訳である(サイードは現実の中東戦争の影を直接或る種の当事者として生きている故やや立場を異にするが、しかし、彼もまたニヒリスムを或る前提として認めている点では共通する・・)。

 これらは私を暗澹とした気分にさせる・・・。いよいよ世界がニヒリスムの領域の中に入り込んでいるらしいという事実が? そうではなくて、これらの人々が結局のところニヒリスムの構図においてしか世界を思考出来ないらしいという事実が、である。つまり、世界は今や意味、価値を欠いている、というかたちでしか思考を進行し得ないかの様に見えるという事実が、である。こう言い換えてもよい。世界がニヒリスムに陥っているのではなく、まさにこれらの人々がニヒリスムを生産しているのだという事実が、である。彼らは自分が生産し続けているニヒリスムに自分で脅えあがっているのだ。・・・・

 今や世界は価値も目的も持たない、これは大いに認めてよいことだ。しかし、世界は価値も目的も持たない、というこの言説の論理を注視しよう。ベルクソンが指摘する様に否定的論理は肯定的構文を前提とし、その否定として成立する。つまり、世界は価値も目的も持たないと、という言説は、世界は目的と価値を持つ、という肯定文の否定として成立している訳である。非−存在は存在を前提とする概念であり、無−価値は価値を前提とする概念である。・・・つまり、今や世界は目的も価値も持たない、という確認は、世界は価値を持つはずだ、あるいは持ったはずだという暗黙の前提を含む言説なのである。とすればこれら、現在のニヒリスムの確認を認める人々の言説は隠密なかたちで価値と目的を夢みている者の言説であるということになりはしまいか? ・・・この事実が私を憂鬱にするのである。しかし、これではあいまい過ぎよう。

 ニヒリスムとは何か?これについてはニーチェが明確に答えてくれている。ニヒリスムとは世界の〈外部〉に至上の価値をたて、その〈外部〉の名において世界の今、この時の存立を評定し、否定する欲望である。神の前に世界は無価値である。死の前に全ての者は無価値である。空において有情としての世界は無価値である・・・等々。・・・そしてニーチェ以来現在に到る思想的営為はその全力を挙げてこうしたニヒリスムの配置、言わば〈形而上学〉的欲望の配置を解体しようとして来た訳である。超越的価値の名による世界の評定を爆破すること、これが思想の営みの中心となったはずなのである。何故これがそれほどに切迫した問いとなったかと言えば、言うまでもなく、近代における西欧の拡大において〈形而上学〉的ニヒリスムが現実の脅威として世界の無化へ進み始めたからである。アウシュヴィッツ−ヒロシマ? そしてまたジャン・リュック・ナンシーが指摘する様にナチスの〈形而上学〉的(至上の価値としてのアーリアン)欲望はその純粋において自殺の欲望でもあった。「そしてまた純粋なアーリアンなど血統学上有り得はしないだろうから、純粋を求めるナチスの欲望はあらゆる雑種の抹殺、つまりは自殺にまで到るだろう・・・」。・・・ともあれ、こうしてニヒリスムの転倒がわれわれの切迫した問いとしてあった訳である。

 ニーチェは勿論、フーコー、ドゥルーズ、ロラン・バルトといった思想家の試みの中心は何よりも〈外部〉の名においてこの世界を評定せんとするニヒリスムの配置を解体することにあったと言える(デリダは別の領域に属すると私は考える・・・)。目的の解体、或る種の価値体系の解体・・・等々。〈形而上学〉を解体し、ニヒリスムを解体すること。この世界をそれ自身の自同律において全面的に開示し肯定すること・・・。

 ところで、特に例の若手に特長的なのだが、彼らに言わせればまさにフーコー、ドゥルーズらこそは世界から目的と価値を消し去ってしまい、ニヒリスムを必然化してしまった、ということになるらしい(彼はデリダもここに入れるが、デリダに関してはおそらくこの主張は正しいだろう・・特異な意味でだが・・)。これは一体どうしたことなのか? 何故こんなことが起こってしまうのか? まず、ひとつ言えることは、リオタールも含めて彼ら(フーコー、ドゥルーズをニヒリストとして考えようとする者たち)は或る根本的な錯誤を犯しているということである。つまり、彼らはニヒリスムと〈形而上学〉を単純に同じものと考えてしまっている様に見えるということだ。例えばリオタールの試みはとりもなおさず西欧の〈形而上学〉を解体することだった。しかし、彼は〈形而上学〉を解体することが必ずしもニヒリスムを解体することを意味しはしないという事実に気付いていない様に見えるのだ。

 〈形而上学〉はまさにこの世界に対して超越的価値を目的としてたてる故にニヒリスムである。それは確かだ。ニーチェもフーコーもドゥルーズもそう言っている。しかし、またフーコーらはニヒリスムがより深い配置において成立しているという事実も絶えず確認していたのである。つまり、ニヒリスムは世界の〈外部〉に広がる至上価値へと世界を還元してゆく動的な欲望であるだけではなく、〈外部〉と〈内部〉を対置するという静的な配置として〈人間〉の思考の配置の中に刻み込まれているという事実である。動的なニヒリスムとは西欧的な〈形而上学〉であり、静的なニヒリスムとは例えばユダヤ的なニヒリスムである。ここで注意すべきなのは〈形而上学〉的ニヒリスムは〈外部〉に広がる〈真理〉をその運動の目的として表象し欲望の対象とするが(プラトニスム・・・)、ユダヤ的ニヒリスムにおいては〈外部〉−〈内部〉の配置は永遠の固着としてあり、そこにはさまよいはあっても、或る目的へ向けての運動は有り得ない。つまり、〈形而上学〉的ニヒリスムは目的という概念を含むが、ユダヤ的ニヒリスムは目的という概念を持たないのである。・・・

 さて、こうして或る微妙な問題が生じることになる。フーコー、ドゥルーズ、バルトらの試みは彼らが西欧的〈形而上学〉の世界にまず生きている以上、〈形而上学〉の解体が彼らの試みにおいて優先される。それこそが当面現実に危機的な欲望として作動しているのだ。目的を解体すること。主体を解体すること・・・等々。こうして〈形而上学〉的ニヒリスムの配置から目的概念が消し去られることになろう。ところでここに奇妙な屈折が生ずる。というのも、目的性、超越的価値による世界の評定が消滅するとき、そこに接近して来るのはニヒリスムの解体ではなく、まずユダヤ的ニヒリスムの無目的性の配置なのである。〈形而上学〉的ニヒリスムは解体される。しかし、同時にユダヤ的ニヒリスムが接近して来るのだ(デリダはひたすらこの領域に留まろうとする・・・)。フーコー、ドゥルーズ、バルトはそれを充分に承知しているはずであり、それ故にこそ例えばフーコーは『性の歴史』の第二、第三巻においてギリシアへとジャンプするのであり(ギリシアは〈外部〉−〈内部〉というニヒリスム的思考の配置を持たない・・・)、ドゥルーズは世界の差異性における自同律の反復を提示しようとし続けてきた訳である。

 ・・・ところでリオタールが典型的であると見えるのだが、彼らは〈形而上学〉を解体すれば世界の危機状態は消滅させ得ると信じ込み過ぎ、その結果その背後から姿を現して来るユダヤ的ニヒリスムの配置に直面して手も足も出ない状態に陥るのである。世界から価値が、大きな物語が消え去ってしまった・・・だから・・・・云々、という訳である。つまり、リオタールらは〈形而上学〉的ニヒリスムの解体の後に、ユダヤ的ニヒリスムのさまよいの領域に捕らえ込まれてしまい、唖然としてしまい、しかもそこに留まってしまうのである。世界には今や如何なる価値も目的もない・・・・。そしてそれを規定の事実として受け入れてしまうのだ。

 ・・・おわかりいただけるだろうか? 〈形而上学〉的ニヒリスムの配置を解体することは容易とは言わぬまでも或る単純さにおいて可能である。世界に目的などない・・・。しかし、その背後により執念深い配置があり、これを解体することは不可能と見えるまでに困難なのである。と言うのも〈人間〉は或る欠如を持った不幸な動物である、という認識はほとんどわれわれの思考の必然と言われるまでに根付いてしまっているからである。ニーチェ、フーコー、ドゥルーズらはそれを試み続けた。ニヒリスムをその根本で解体すること。・・・そして私を憂鬱にするのは、今や多くの思想家がニーチェらの試みの中心に拡がる〈来るべき領域〉,如何なる意味でもニヒリスム的な配置をはらまぬ生の領域の開示を見まいとし、自身の弱さ、老衰の承認でしかないユダヤ的ニヒリスムにしがみ着いてしまっている様に見えるという事実なのである。その結果彼らはフーコーらをニヒリストとして捉えようとし続ける訳だ! そこに残るのは例えばリオタールの影の薄い、哀れな実存主義であり、伝統と血への回帰であり、コジェーヴが日本的スノビスムと読んだ、内容なき美的形式としての生の美術品化である・・・。

 ようするに、再び執念深くニヒリスムは生産され続けているのであり、それがもはや否定し難い〈人間の条件〉として必然化され承認され始めてしまっているらしいというこの事実が私を憂鬱にするのだ。これはわれらが「新人類」にも共通することである。新人類などという呼称はどうでもよいが、かれらの性格の特長は要するに一種江戸的な浮世性であり、貧相なシニスムである。世界に対するごうまんさとたかを括った弱者の論理がそこを侵している訳だ。・・・まあ日本に関して言えば私はどうなってもよいと思っている。自分の生まれた国を憎悪することは人間として許される最小限の権利のひとつである、と言ったのは三島由紀夫だが、それだけではなく、すくなくとも日本的無常観は他の国家の人々をその本質で巻き込んでゆくほどの強力な意志性を含まないだろうから、人しれず息絶えてゆく者として消えゆくだろうからである(まあ、そんな訳にも行くまいが)。しかし、その欲望において、クロソフスキーの表現を借りれば不吉な激しさを持つ西欧はおそらく間違いなくそのニヒリスム的配置において世界を自身の無の中に取り込もうと作動を開始すると予想されるのだ。フーコー、ドゥルーズらがわれわれの目には異様と映るほど切迫した性急さにおいてその試みを進行させんと試みているのはそれ故なのである。

 ・・・・ともあれ、ニヒリスム的配置に対する最近の無力な言説の広がりは私を憂鬱にする。まあ、世界の滅亡の間近さを嘆く理由はないからそれはおいておくとして、それらは現にあるこのわれわれの生の進行を空虚化し、衰弱させ続けてしまうのだ。・・・世界を再び豊かなものとするために、目的を、見果てぬ夢を再興すること? ・・・しかし、価値と目的が消滅する時、そこに現れるのは価値と目的を喪失した世界などではなく、如何なる意味においても〈外部〉を持たぬ世界、世界イコール世界という自同律において震え続ける創造そのものとしての世界であるということになりはしまいく? 老衰の穏やかさにおいて衰弱してゆく世界を愛することが問題ではなく、或る絶対的な若さ、或いはニーチェ的に言えば幼児性においてある世界に対する愛としてあること。・・・ともあれ再び老人たちによるシニカルな世界支配が屈折したかたちで正当化されつつあるらしいのだ・・・。おお、たいがいにしてくれ!


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