さようなら陳式森
パフォーマンスの会「橋」

2002年3月16日(土)14:00―21:00



ムービングアーススタジオ
世田谷区赤堤2-5-9 ラズロウビル1F(小田急線豪徳寺駅/東急世田谷線山下駅下車徒歩10分)
会費:一口2500円
*何口でも歓迎いたします。*当日の会費は、最小限の運営実費を除いた金額を陳さんへの餞別とさせていただきます。
問い合わせ先・予約:ブルーボウルカンパニー(担当:大野)

この春、陳式森(チェン・シーセン)さんが14年間住み慣れた東京を離れ、香港へ転居することになりました。
彼の新しい活動の場が香港へと移ります。
つきましては、彼の転居祝いと新たな場所での活動へのはなむけとして“さようなら陳式森・パフォーマンスの会「橋」”を行います。「橋」というタイトルは彼の提案によるものであり、3月16日当日は彼の39回目の誕生日でもあります。
この吉き日を友人たちによる送別会に留めず、陳さんにとっても私たちにとっても新しい出会いの一日になればと思います。

陳式森(CHEN Shi Sen)プロフィール
1963年北京生まれ。その後、廣州移住。1986年廣州でパフォーマンス活動を開始。「南方藝術家サロン」参加。1987年9月渡日。1989年天安門事件後、民主化運動参加。その後、作品のテーマは変化し、戦争、虐殺、天安門事件を表現し続ける。1997年よりNIPAF参加。『新華字典』『朝花夕捨』『偽自由書』『山海経』など連作を発表。昨年6月4日香港・マカオで『偽自由書・一種姿勢』、8月15日東京靖国神社で『偽自由書・8.15の靖国』を発表。上述2日の文化表象を思慮して、今回の仕事場移転を決定する。

出品者名(あいうえお順)
荒井 真一 +魯迅
イト―ターリ+ハンクブル
海上 宏美 +当日のオタノシミ!
高橋 芙美子 +未定
武井 よしみち+足立智美
竹田 賢一 +未定
田中 照幸 +チョコレート
黄 鋭  +安希の鉄観音
李 文  +一つ目   
___________________
陳 式森  +9名のアーティスト

*発起人ならびに出品者
1)荒井真一(アーティスト・出品者)
2)イトーターリー(アーティスト・出品者)
3)海上宏美(名古屋在住・演出家・出品者)
4)小澤理史(美術家)
5)小松 進(真空管アンプ製作者)
6)サエグサユキオ(アーティスト)
7)塩月恵理(ウランバートル在住歴2年)
8)高橋芙美子(アーティスト・出品者)
9)武井よしみち(アーティスト・出品者)
10)竹田賢一(音楽家・出品者)
11)田中照幸(アーティスト・出品者)
12)谷川まり(アーティスト)
13)趙  南(中華人民共和国出身、東京都在住・詩人・民主運動活動家)
14)野村俊裕(メディアプロデューサー)
15)黄  鋭(中華人民共和国出身、大阪府在住・アーティスト・出品者)
16)牧 陽一(中国現代美術研究者・埼玉大学助教授)
17)莫 昭如(香港在住・劇作家・プロテューサー)
18)李 文(シンガポール出身、東京都在住・アーティスト・出品者)
19)渡辺和俊



「中国」「動乱」「製造」
荒井真一

2000年6月4日午後、池袋芸術劇場前の広場でチェン(陳式森)さんは「中国」「動乱」「製造」のそれぞれの文字をコピーしたA3判の用紙を地面に並べていた。風で飛ばされないように水に濡らして地面に貼り付けていく。約20枚(10mぐらい)の列を作り、それを延ばしていく。息子のエン君もそれを手伝う。六本木の中国大使館前のパフォーマンスからついてきている、日本の公安関係者がニヤニヤしながら「これって芸術なんですかねー」と私に話しかけてくる。

途中から私やパフォーマーの田中照幸君もパフォーマンスを手伝う。文字の帯はどんどん延びていく。途中で風に飛ばされたものは、また水で濡らして元の位置に置いていく。少しずつ人だかりができ、あるカップルは写真を撮ったりしている。「パフォーマンスやってるんかなー」という声も聞こえる。大きなむく犬がその上をすたすたと横切っていくと笑いが起きる。

池袋に移動する前、チェンさんは中国大使館の休日で閉ざされた門の向かい側の歩道に、天安門のときの写真を数枚貼ったボードを置き、仲間とともにいた。そして中国でよく飲まれている54度の焼酎「アールゴートウ」を地面に沁み込ませ、そして自分もゆっくり飲み、あとは友人たちに盃を勧めた。それは鎮魂の儀式/パフォーマンスであった。

一緒に行った木立実はビデオで彼のパフォーマンスを記録していたが、観客を写す要領で大使館側の歩道の人々を撮ろうとすると「おい、何撮ってんだ。やめろ」とどなって男が駆け寄って来た。「誰の許可を得て、ビデオを撮っている。撮影は禁止だ」「あなたはいったい誰なんだ、どうして我々の記録を禁止できるんだ」「我々は警察だ。我々の姿を記録するのは禁止だ」「証拠は?」「ふざけるな。公安だ。おまえらは奴らの仲間か、中国人か? 名前は? どこから来た?」「あんたらを撮ることはやめる。ただパフォーマンスの記録は撮り続ける」「何がパフォーマンスだ、ともかく我々を撮るな。いいな」。

大使館側の歩道にはビデオ、カメラを持った中国人、日本人が、チェンさんたち側の歩道の倍の30人くらいは居たのである。私たちは彼らが何らかの取材や、チェンさんの友人ぐらいに思っていたのだが、そのすべては私たち以外は中国大使館関係者、日本と中国の公安関係者で、チェンさんのパフォーマンスとその支援者たちの情報を収集していたのだった。私はその前年(1999年)6月4日、彼がここで行ったパフォーマンスで警察に連行されたことは知っていて、少しは緊張してこの場に居合わせたのだが、まさかこんな状況だとは思っていなかった。

そこにいた公安の何人かは池袋にも来て、チェンさんのパフォーマンスを遠目に見ている。私たちにつっかかってきた公安は、その後しきりに私たちに話し掛けてきて、今では仲間のような口のきき方をしてきて、とても気持ちが悪い。

「中国」「動乱」「製造」の帯はどんどん延びていく。帯の周りには大きな人垣ができていた。観客の一人が、「あのー、すみません。これって何なんですかね?」と聞いてくる。「あー、そうですね。今日は6月4日で11年前の中国天安門広場で多くの中国人が軍隊に殺され、傷つけられ、連行されたんですよ」「ああー、そうですか今日があの日でしたか。あの頃は毎日テレビでやっていたから見ていましたよ。ひどかったですよねー」「彼は日本に住んでいる中国人アーティストなんです。今パフォーマンスをやっているんです」「あ、パフォーマンスですか。で、どういう意味なんですか?」「そうですね、『中国』『動乱』『製造』という言葉が大事なのかもしれませんね」「ふーん、よくわからないけど、面白いですね、ありがとう」、このような会話があちこちで交わされていた。

その帯が30mに達しようかとした頃、公安ではなく公園の管理事務所の人がチェンさんにクレームをつけ、作業が中断される。通行人の邪魔になること、何枚かの紙が飛び散り公園を汚していること、事前の申請がなかったこと、そのためすぐに撤収してほしいというのだった。スケボーやダンスをする人たちのほうが通行人には危険だろうし、チェンさんは「中国」「動乱」「製造」の帯の上を人が歩かないように誘導しているわけでもなかった。飛び去る言葉(紙)には慎重に配慮していた。しかし結局、埒があかず、チェンさんは次にやるときは申請をとってからという向こうの言い分をのみ、撤収するしかなかった。本当はもう少し帯を広げて、その上で観客も含めて、酒でも飲みながら話をするのがこのパフォーマンスの一番大事な要素だったようだが、しようがなかった。

その後チェンさんは芸術劇場の貸し会議室で行われた民主化運動の会議に参加した。私は彼の荷物を持って会議室に行ったが、会議室周辺には大使館前にいた明らかに目つきの違う中国・日本の男たちが、誰にはばかることなくたたずんで、目を光らせているのだった。



2001年8月14日私はちょうど中国の四川省で行われた第2回国際「Open Art」パフォーマンスフェスティバルに参加していた。中国のアーティスト田流沙が新聞を私に見せた。そこには小泉の突然の靖国訪問の記事があった。また韓国で抗議のために、自分たちの指を切り落とす人々の写真と、日本ではかなりマイナーだと思われる新左翼学生運動の抗議の模様も紹介されていた。それは抗議の横断幕をあの大鳥居の前で持つヘルメット姿の学生10人ぐらいの写真であったが、たいそう牧歌的だった。8月16日私と田さんは成都市の路上で「私の傷を看てください----小泉首相が靖国神社に参拝した3日後に」というパフォーマンスを行った。チェンさんはその前日敗戦記念日である8月15日に靖国神社でパフォーマンスを行い、警官により中断された。その日の靖国は例年の2倍以上の12万5千人が参拝したという。チェンさんはたこ糸で小泉の靖国参拝に関する発言を顔に巻きつけ、無言で靖国を指差していたらしい。この模様をあるWebページでは写真とともに
「顔を紙で隠して靖国神社に入ろうとした左翼(朝鮮人か中国人らしい)
http://isweb34.infoseek.co.jp/school/haniwa82/pictures/yasukuni/2001.8.15.html
[トップの写真はこのページのものを使わせていただいています]」と紹介している。警官が彼を制止している間、まわりからは罵声とともに、弁当の空き箱などが投げつけられたり、殴りかかろうとした者もいたという。

昨年12月桑原正彦のペインティングの個展にチェンさんと一緒に行ったとき、桑原は打ち上げで「中国窃盗団を連れてきたかと思ったよ」と笑いながら、私たちに話したが、まったくそのとおりだ。窃盗団は言いすぎだが、チェンさんの長い髪を束ね、ズタ袋を背負った姿は梁山泊の豪傑みたいだ。「シンちゃん(私のこと。この呼び方は今や故郷・富山の銭湯のおばちゃんぐらいしかしない)、おマエは、ホントーにおおバカものヨ、がっはははっ、ネ、クワハラさん」と大声の変なイントネーションの日本語で笑う。しかし、チェンさんがもっとバカ? なのはみんな知っているぞ。あなたはその打ち上げのあと、門前仲町の地下鉄の駅で日本人カップルと言い合いになり、男のほうに殴りかかろうとして、一緒にいた私の友人・玉掛理人に止められていたというじゃないか(この話は久住卓也から聞いた。私は桑原たちと朝まで飲みに行ったので居合わせなかった)。

大胆で直感、瞬間的に行動を決定するような彼は、しかしその相貌とは違い「言葉」にこだわり、「書」という理知的で思慮深く、デリケートなパフォーマンスを行う一面もあるのは、中国大使館前、池袋のパフォーマンスでも発揮されている。このミスマッチ。

昨年(2001年)7月28日の武蔵小金井の「アートランド」でのパフォーマンスは、紙に火でドゥローイングするというものだった。真っ暗な中で床に敷いた紙に、ライターのようなもので火をつける。一瞬紙は燃え上がる、時には火花が飛び散る。しかしなぜか紙は燃えつづけない。常に彼が描いている部分だけが燃え上がっていく。観客は彼の手の動きに集中する。そこには線香花火のような微妙な火花が起こる。最後に彼は壁に貼った大きな紙の前にたたずむ。そして「えぃ」っと素早く体を振り回し、言葉のようなものを書く。炎の軌跡が目に焼きつく。それは光で書を描くということだった。

私にはそのとき、かつてNIPAF1999大阪で彼のパフォーマンスを初めて見たときの記憶がよみがえった。彼はそのときは普通に墨汁を使って描いていた(しかし筆は彼の毛髪で作ったものであった)。そして壁一面の紙に素早く描いていく途中で墨汁は、どす黒い赤色になっていたのだ。何かが一瞬のうちに起こったようだった。そして観客はすぐに、それが血であることに気づき、息をのんだのだった。見てはいけないものを見ているような気分に私は襲われた。しかしチェンさんは描きつづけた。

ぱっと明かりがつく、壁と床の紙には黒々とした軌跡と、ところどころにドリッピングしたような飛沫が残っていた。観客の大きな拍手がわいた。大阪でチェンさんは図らずも指を切ったのだったが、「今日はすごくカッコよかったけど、いったい何をやったの?」 「あ、シンちゃん、これはファックスの感熱紙だよ、ライターはターボ型のやつ。面白いでしょ」。面白すぎる。チープすぎるが、美しい。

嫌がるチェンさんから、捨てるという、その作品をもらった。しかし、いつの日かその書は日に焼け、全体が茶色くなり、そこに何が描かれていたかがわからなくなってしまうのだ。しかしパフォーマンスってそういうことだ。彼の書は、その美しさを永続させることはできないが、多くの観客の脳裏に彼の行為は刻印される。

チェンさんの大胆で繊細な、そして社会と自分の関係に自覚的な生き方とパフォーマンスはとても興味深いものだ。ミスマッチのようで、でもそれが人間ってものなんだと、思い直させる、骨太な人間がチェンさんであり、彼のパフォーマンスだ。

短い間だったが、この日本で彼と飲み、語り、実際に多くのパフォーマンスに接することができて本当によかった。彼が日本にいなくなるのは、つまらない。しかし、香港こそ彼が必要とされ、彼ももっと大胆に率直に活動が行える場所であるのは明らかだ。私たちはこれからも仲間だし、チェンさんに「シンちゃんも年取って、駄目になったジャン」なんて言われないようにしていかないと、と思っている。

っていうか、「馬鹿やろう。そんなこたあ、どうでもいいんだよ。俺は、俺で大変だけど頑張ってんだから、それくらいわかってくれよ」と今度会ったときも、結局あなたにくだを巻いているんだと思うよ。
(2002年3月3日記す)

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