公開質問状

はじめに

この公開質問状は、1996年8月に東京国際展示場(通称ビッグサイト)において行われた展覧会「Atopic Site」、「On Camp / Off Base」に対する「検閲」問題に関するもので、主催者、キュレーター、参加作家をはじめとする関係者、およびメディア関係者に対して発送され、またホームページ
http://www.asahi-net.or.jp/~ee1s-ari/ap.html
において公開されます。
この公開質問状の意図は、まず、何が起こったのか、事実関係を明かにすること 、ついで、何が問題とされるべき点であるのかを明らかにすることにあります。今 回の出来事に関しては、情報の不足から、事態の全体像を描くことが容易ではありません。まずそのことについて、関係者から誠意ある回答を求めたいと思います。 また、今回のこの展覧会に関わるものの立場の違いは、事態の本質が何であるのか ということの理解に決定的な影響を与えています。そこで、多くの方々から各自の 立場で「このような点が問題なのではないか」という意見を寄せていただきました 。それを整理してひとつの見通し−−「正しいものの見方」−−を提出することは 私たちの任ではありませんし、そのようなことには意味がないでしょう。そうではなく、今まで芸術や、また、芸術と社会との関わりを論じる際に前面には取り上げ られなかったような観点からの疑問点を示したいと思っています。今回の出来事を 問題化する視点の豊富化が、私たちの課題のひとつであると考えます。 
今後も、地方自治体が財政的にバックアップした現代美術の展覧会は続くでしょう。そのときに今回のような事態を引き起こさないために(今回のこの企画に参加 したかしないかに関わらず)キュレーターであれ、作家であれ、いかに考え、行動 するべきかの一助になればと思い、公開質問状を作成、送付する次第です。したが って、ここでは、個人の責任追求が主たる目的ではありません。
回答は、文末に記載した住所またはメールアドレスに6月20日までにお送りください 。またその際、回答を上記のホームページに掲載することを了承ください。どうか 、皆様のご理解とご協力をお願い致します。


事実関係について

1.「沖縄プロジェクト」の作品は、当初会場で配布されていたパンフレットには記 載されておらず、展覧会会期の終わり近くになってパンフレットに追加されたチラ シには「アジアのプロジェクト、アーティスト・イン・レジデンス−ヌヌのチチ− (ヌヌとは布のこと、チチとは筒のこと)」と紹介されています。3月に出品作家に 渡された企画書では、「沖縄プロジェクト」と題され、「(アーティストが)沖縄 に滞在し、固有な場を活性化させるプロジェクト」と位置づけられていました。「 沖縄プロジェクト」と呼ぶほうが相応しく思えますが、この変更はどのような理由 で行われたのでしょうか。

2.翁長直樹さんは、先に挙げた企画書では「沖縄担当キュレーター」とされており 、アーティスト・イン・レジデンスに参加したシューリー・チェンさんへの招聘状 も、翁長さんから出されています。ところが、プレス用の資料の中では「企画協力 」、8月10日に開かれた「アトピック・サイト」展のシンポジウムでは「協力者」、 パンフレットに追加されたチラシでは、「出品作家」のように扱われています。ど ういう事情でそうなったのでしょうか。また、作家のひとりの親泊仲真さんが上述 のシンポジウムで協力者として紹介されたのは、どうしてでしょうか。 3.「沖縄プロジェクト」の作品は、5月からシューリー・チェンさんを迎えて沖縄 の読谷村で行われたアーティスト・イン・レジデンスの記録を展示したものですが 、その作品に対して主催者から次のような作品の変更・撤去の要請がなされたと言 われています。

a)「沖縄プロジェクト」の参加者へのインタビューをまとめたヴィデオの中で、知花昌一さんが「芸術は政治的なものである」と発言した部分が不適当だとして、展示を拒否する。
b)アーティスト・イン・レジデンスの記録ヴィデオの中で、地元の人が「象の檻」と呼ぶ楚辺通信所の前をシューリー・チェンさんが旗を持って歩いている部分に問題があるとして、展示を拒否する。
c)アーティスト・イン・レジデンスで出されていたニュースレター「エレファント通信」、座喜見城の使用許可を巡っての読谷村教育委員会とのやり取りの記録、沖縄の米軍に関する書籍など、「沖縄プロジェクト」に関わる資料の展示に対して、そこにその他のプロジェクトに直接関係のない沖縄文化一般についての書籍を加える。
d)c)で挙げた資料が置かれたテーブルには、観客がそこに座って資料を読むことができるように椅子が用意されていたが、「興業場法」
e)沖縄のオリオンビールを置いていたが、「食品衛生法」に抵触するとして撤去を求める。

a)とb)については変更なく展示されたようですが、c)の資料には関係のない沖 縄に関する書籍、料理の本だの、観光案内などが混ぜられたうえ、会期の終わり近 くまで、その上には「作品に手を触れないでください」といった類の注意書きの札 が置かれました。作家たちが見せようとした沖縄プロジェクトに関わる資料は、そ うした関係のない書籍等の下に置かれ、観客の目に触れないようにされています。 d)の椅子も会期後半まで撤去されたままで、作家側からの指摘で元の場所に戻され てからも、資料の場合と同じように「手を触れないように」というプレートがその 上に置かれています。e)のオリオンビールは撤去されたまま、期間中控室に置かれ ていました。「沖縄プロジェクト」の作品に対する変更・撤去の要請は上の5点だ けだったのでしょうか。

4.「沖縄プロジェクト」の作品は、展覧会オープニング前日7月31日に開かれた記 者発表の際に「調整中」を理由についたてで隠されました。またプレス用の資料に も記載されていません。いったい何が調整されていたのでしょうか。また、プレス 用の資料から外された理由は何でしょうか。 ちなみに、沖縄タイムスはその経緯を次のように書いています。

沖縄タイムス8月1日(木)朝刊社会25面
沖縄の作品にクレーム/アトピック・サイト主催者側
【東京】都市芸術をテーマに、1日から臨海副都心の国際展示場で始まる「アトピック・サイト」(主催・実行委員会)に出品された沖縄の映像作家等による共同作品が、「依頼した内容と違う」とする東京都など主催者事務局によって、31日の記者発表の際、ついたてで隠された。展示物には読谷村の「象のオリ」や反戦地主の知花昌一さんの映像が含まれており、高嶺剛さんは「政治的作品との決めつけによる圧力だ」と反発している。本番での展示のめどもたっていない。作品は、映像作家の高嶺剛さんを中心に県内の写真家や美術家が制作。円形に囲ったスペースの内外で、別の出品者であるシューリー・チェンさんの沖縄での創作活動を記録した映像や写真を展示している。事務局は高嶺さんらに「政治的傾向のある作品は困る」と指摘。消防法違反などを理由に、事務局が記者発表直前についたてで囲いこんだ。事務局は「政治色についても、参観者の受け取り方の問題がある」としている。一方、高嶺さん側は「都市が抱える問題が統一テーマであり、今の沖縄の状況下で象のオリをはずすほうが不自然」と主張している。
沖縄タイムス8月3日(土)夕刊社会7面
主催者側と沖縄側条件付きで合意/アトピック・サイト
【東京】臨海副都心の国際展示場で、「アトピック・サイト」(主催・実行委員会)が始まったが、作品の「政治色」や企画テーマとの適合性などをめぐり主催者事務局と沖縄の制作者が対立、出品があやぶまれていた問題は、7月31日深夜の協議で一部条件つきでの展示に双方が合意した。

5.3のd)で挙げた椅子の設置について、有明地区を担当する保健所、消防署に問い 合わせたところ、「アトピック・サイト」展の確認作業、査察で、椅子の設置が問 題になったことはないということです。また、3のe)の食品衛生法については、会場 で菓子などを配るという話は聞いたが、加工品だし問題はないと返事したとのこと 。3のd)、e)の要請の理由は何だったのでしょうか。

6.電通プロジェクト開発局の内藤さんたちは、東京都から言われたこととして、 シューリー・チェンさんに彼女の作品中のテキストと、作品タイトルの変更などを 求めています。チェンさんは、沖縄の市町村名、日付、そこで起きたアメリカ軍基 地に関わる事件・事故を記述したテキストを30点、彼女の作品の一部として床に張 っていました。たとえば下のようなテキストですが、そこから日付と事件・事故の 記述を削除し、地名だけにすることを求め、チェンさんがそれを拒否すると、関係 のない記述を追加すること、テキストをポエティックにすること、英語にすること など、さまざまな形で変更を求めています。

◯読谷村1996. 6. 22
読谷村楚辺通信所 知花昌一と一坪反戦地主
◯読谷村1981. 4. 21
読谷補助飛行場におけるパラシュート降下 訓練中に3人の兵士がターゲットを大きく 外れて朝礼中の古堅小学校の上空を通過
◯読谷村 渡慶次 
儀間海岸一帯 日航アリビラ建設
◯金武町1996. 7. 17
普天間飛行場返還に伴うヘリポート移設に反対
◯金武町1995. 9. 4
米兵3人による小学生拉致、強姦事件発生

 また作品タイトル「象のオリ、蝶のロッカー」を「エレファント・ケージ、バタフラ イ・ロッカー」に、さらにエレファント・ケージという言葉を外し、例えば「レーダー・ ウェブ」というタイトルに変えること、また、作品説明象のオリ」、「米軍施設」を別 の言葉に変えること、協力者リスト中の「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」を 外し、個人名に変えることを求めています。  内藤さんたちの言う東京都とは、具体的に誰を指すのでしょうか。主催者のTOKYOシーサイドフェスタ'96アートプラザ実行委員会委員の副知事をはじめとする東京都職 員のことでしょうか。あるいは同アートプラザ実行委員会規約に定められたように、この 事業を所管する生活文化局から事務局業務に充てられた局長以下の東京都職員のことでし ょうか。

7.3月にアーティストに配布された企画書には、つぎのようにキュレーターの役割 が記されています。

●柏木博:チーフキュレーター
●岡崎乾二郎:作家監督・展示責任
●建畠晢:事務局長
●四方幸子:副事務局長
●高島直之:カタログ責任編集

ところが、4月10日付けで出されたTOKYO シーサイドフェスタ'96アートプラザ実行委員会規約は、第12条で事務局を次のように規定しています。

(事務局) 第12条  
  委員会の事務を処理するため、本事業を所管する局に事務局を置く。
2 事務局に事務局長、事務局次長、課長、係長及び職員を置く。
3 事務局長は、本事業を所管する局の局長の職にある者をこれに充てる。
4 事務局次長は、本事業を所管する局の参事の職にあるものをこれに充てる。
5 事務局に関する事項は、事務局長が別に定める。

 また、8月25日に行われたキュレーター会議記者発表のなかで、柏木博さんは「ギ ャラリー事務局」という名を挙げ、3月14日のキュレーター会議が展覧会予算を巡っ て紛糾、代理店と決別して事務局体制が崩壊、その後、事務局体制は混乱したまま 作業が進んだと述べています。キュレーターはそれぞれ、展覧会の企画・実施にお いてどのような役割を担い、また、またどのような権限を付与されていたのでしょ うか。柏木さんが記者発表の際に触れた「ギャラリー事務局」とは、何なのでしょ うか。

8.1〜7で挙げた以外にも、インタビュー・ヴィデオの展示拒否、シェリー・ローズさんの作品に掛けられた覆い、臨海副都心が埋立地であることに触れた木村稔さんの作品説明の展示拒否など、多くの「検閲」、規制がありました。それぞれの場面でそれぞれのキュレーターは何をしましたか。また、このような規制、「検閲」、あるいは作品内容の変更は、それぞれの作家とその作品にどのような影響を与えたのでしょうか。

9.柏木さんは、中止された世界都市博覧会(以下、都市博)「アートシティー事業 」のエグゼクティヴ・プロデュサー3人のうちのひとりでした。「アートシティー事 業」の主な内容が「シネマアヴェニュー」「ギャラリー」「ライブシアター」の3つ の事業だったこと、また、今回の「アトピック・サイト」「オン・キャンプ/オフ ・ベース」「TOKYO・アート・ゾーン」が「アートシティー事業」の成果の有効活用をうたって行われ 、柏木さんがチーフキュレーターとしてほかの4人のキュレーターの人選を行ってい ることなどを考えると、中止になった「アートシティー事業」において、柏木さん はその「ギャラリー」を担当していたものと思われます。今回の展覧会は(株)電 通を代表とする「アートシティー事業共同企業体」への損害補償の代替として行わ れましたが、同時にそれは柏木さんへの補償でもあったのでしょうか。柏木さんは 都市博の主催団体である東京フロンティア協会からエグゼクティブ・プロデューサ ーとしての委嘱を受けており、東京都は、補償対象者を「都市博の開催を前提とし て直接協会と契約し、又は直接協会から依頼若しくは指示を受けて、『活動ないし その準備活動』を行ったものとする(補償基準§2-I)」としています。

10.また、今回のキュレーターのひとり岡崎さんは8月10日のシンポジウムで、「 ギャラリー」の参加作家だったことを明らかにしていますが、岡崎さんがキュレー ターのひとりに選ばれたことは、岡崎さんへの補償なのでしょうか。東京都は「補 償請求者に対する補償には下請負業者等への補償金が含まれている」としています 。

11.TOKYO シーサイドフェスタ'96アートプラザ実行委員会収支予算書、同事業執行計画書、同補助金支出計画書によれば、シーサイドフェスタ'96アートプラザは東京都からの補助金だけで運営されて いますが、その補助金1,764,899,000 円のうちの338,193,000円がギャラリー 事業費で、それはそのまま委託料として支払われることになってい ます。  ギャラリー事業が「アートシティー事業」の実施を委託されていた「アートシテ ィー事業共同企業体」への損害補償の代替として行われていたことから、名称は不 明ですがやはり(株)電通を代表とする共同企業体に上述の委託料が支払われ、そ こからアートシティー事業の場合は67社あった下請業者に割り振られたと思われま す。  「オン・キャンプ/オフ・ベース」の参加作家は、そうした下請業者の一つ「東京コネクション」と覚書を交わし、50万円から30万円程度の製作費とそれとは別に 運送費を得ています。また、「アトピック・サイト」展の出品作家は(株)電通テ ックと契約を結んでいたようです。柏木さんは、8月25日のキュレーター会議記者発 表において、昨年の10月31日に「電通」から展覧会企画の誘いがあったと述べてい ますが、キュレーター6氏は(翁長さんを含める)は、誰と契約を結んでいたのでし ょうか。また、それはどういう内容のものだったのでしょうか。

12.上にも書いたように「アトピック・サイト」「オン・キャンプ/オフ・ベース 」「TOKYO・アート・ゾーン」は、都市博のなかで東京フロンティア協会出展事業の一つとし て計画されていた「アートシティー事業」の代替事業として、「都市博事前準備の 成果の有効活用」をうたって行われましたが、「アートシティ事業」の「ギャラリー」で計画されていたデニス・オッペンハイムを中心とした展覧会と、今回の「ア トピック・サイト」展等の内容は大きく異なると伝えられています。この変更はど ういう経緯で行われたのでしょうか。

13.8月24日のシンポジウムで、柏木博さんは、今回の展覧会で検閲のようなものが あったことを認めながら、表現の可能性が広がったと述べています。その例として 、柏木さんは「インパクション」99号で、会場のレギュレーションに違反してバス ケットボールやキャッチボールができたことを挙げていますが、それを表現の可能 性というのでしょうか。今回の「アトピック・サイト」展等を通じて、いったいど ういう表現の可能性が広がったと考えますか。

14.岡崎さんは、8月10日のシンポジウムにおいて、今回の展覧会の基本的な考え方 として、都市にアトピックな症状として現れた未解決の問題を公開して議論の場を 作ることをあげています。展覧会で起きた規制と「検閲」についてキュレーターが それを明らかにし、議論を公開することはそこに含まれないのでしょうか。  また、柏木さんは同シンポジウム、8月25日のキュレーター会議等において、資料 、メモなどを整理した上で、今回の「検閲」について印刷物等できちんと報告する ことを明言していますが、それはいつ、どういう形で行われるのでしょうか。

15.市民団体による情報開示請求を通して、多くの地方自治体で公金の不正支出が 明かるみに出されています。東京都でも実際の使途を説明できない接待費が明らか になり、都幹部職員らがそれを返済しています。今回の「アトピック・サイト」展、「オン・キャンプ/オフ・ベース」展等は、 全額都の費用で実施されましたが、実行委員会の形式をとって行われているため、 私的な団体の事業と見なされ、東京都の情報開示条例の対象とされません。今回の ような実行委員会形式で行われる事業についても、その情報を公開する必要はない でしょうか。


ジェンダーの問題

シューリーチェンが、沖縄プロジェクトのためにアーティスト・イン・レジデンス を行い、東京でのアトピックサイトに至るまでの過程において、ジェンダーの問題 があったと思われます。

16.女性アーティストが、男性主導社会にあって、自らの主張を述べ、考えを伝え 、コラボレーションを行うことが難しいという認識を、キュレーターの方々は持っ ていましたか。シューリーチェンは、「キュレーターたちは、読谷サイトでこのプ ロジェクトに参加するボランティアの人たちを集めていました。そこは、非常に男 性主導型の社会です。わたしは、女のグループがプロジェクトに参加するべきだと いうことと、強姦事件を扱うべきだということを強く主張しました。わたしは、読 谷サイトで6週間仕事をしました。その結果、わたしのプロジェクトのコンセプト や共同制作の様式をめぐって、結局、対立を解決することが出来ずに終わったので す。」と、ジェンダーの問題があったと指摘しているシュリーチェンに対し、説明 を求めた北原恵さんへの返事の手紙で言っています。コラボレーションという作業 中になされた会話が、男性の論理で押し流されてゆく構図が見えています。招聘し たアーティストが女性なのですから、内容が女性の視点で思考される可能性が高く なることを認識し、またコラボレーターの半数は女性にするという配慮があってよ かったのではないでしょうか。

17.キューレーターが、シューリーチェンのコンセプトをステレオタイプなフェミ ニンな言葉使いをしながら歪曲する行為は、許されるものでしょうか。そこに明ら かにジェンダーの問題を見ることができます。5月30日に、電通の清水勝男さんから 柏木博さんにあてられた手紙のなかで、都が主催する事業である以上「政治性の排 除」は必然だと読谷サイトにあてた手紙の中に、その行為があるのです。 「どんな場所にも、太古の昔からそこに暮らしてきた、ひとりひとりの小さな気持 ちが宿っている。シェークスピアのマクベスのストーリーと沖縄のノロの習俗を下 敷きにして、いままで書かれてきた大きな歴史には、決して書かれることもなく忘 れ去られてきた、人々の日常の小さな感動、……ワタシの肩に蝶がトマッタ……小 さな思いを、拾い集め、インターネットの最新メディアによって、その声を蝶を放すように、世界にオン・エアする。とか。象のおりはこのコンセプト、彼女の場所とメディアにたいするこの独特のアプローチ方法による、たまたま対象のひとつだ というわけす。」 以上の2つの事柄は、文章という形でわたしたちに残されました。ジェンダーの問題 は鈍感さの中で生じることが多いので、非常に指摘することが難しい問題です。だからこそ、ここで、ジェンダーの問題を取り上げることは、沖縄プロジェクトの決 裂や検閲、そしてパブリックアートについての総体を見る上で、ひとつの大切な指 摘になると思います。


「公共領域」について

18.今回の展覧会を「パブリック・アート」ないし「パブリック・アート」をこえ るものとしてキュレーターたちは捉えていた(捉えている)と、私たちは聞いてい ます。そうであるとするならば、当然「公共領域(パブリック・スフィア)」につ いての何らかの理解がそこに前提とされているはずです。私の理解するかぎりでは 、「公共領域」とは、個人が、自分が誰であるのかということを問われることなし に自分の見解などを表現できる場のことを意味していたはずです。つまり、そこで 表現を行うのに、特別の資格審査もないし、また、そのような審査を行う機関もな い領域のことです。そこに何らかの権威が存在するとしたら、それは、他者の表現 の機会を何らかの力によって予め排除しようという行為を抑えるためのものである でしょう。誰かが、その空間(自分の領土)での表現に対して資格を制限したり、 あるいは、そもそもその空間にはいることを制限する権限を持つ、というのは「私 的空間」の特徴であったはずです。 ここで、キューレターの皆さんに、それぞれのお考えになる「公共空間」の概念に ついて、また、今回の展覧会が、「公共領域」に属すものと考えている(いた)の かどうかについてお聞きしたいと思います。
19.「現実には検閲のない場所なんてない」というような発言をキュレーターの何 人かの方からお聞きしたように思います。確かに、その通りだとは思いますが、そ れは、「公共領域」など不要であるとの認識なのでしょうか。現在における課題は 、さまざまな権力に対して、そこからは見えない「私的領域」を作り、それらをネ ットワーク化することである、との認識なのでしょうか。しかしすべては私的領域 であるといってしまうことは危険なことのように思われます。というのも、例えば 、今回の都の「実行委員会形式」に見られるように、「私的領域」を構成すること で、人々から身を隠すのは、むしろ、さまざまな権力の側であることの方が多いか らです。この点について、キュレーターの皆さまの見解をお伺いしたいと思います 。


美的判断の自律性について

20.例えばレイモンド・ウィリアムズの『文化と社会』が指摘したように、「文化 」という言葉が重要な価値を持つものと、ヨーロッパ社会において認識されるよう になったのは19世紀のことでした。産業化と社会的分業の進展が、人々に−−とり わけ都市に溢れる群集(労働者をはじめとする「危険な階級」)のイメージを通し て−−「現代社会は無秩序に陥っている」というという感覚を与えた、というわけ です。そのような無秩序に対して、今日いうところの「ハイ・カルチャー」が、失 われた秩序の保存場所として見出された。アーノルドの『教養(文化)と無秩序』 から、グリーンバーグの「アヴァンギャルドとキッチュ」、それに、ある意味では 、アドルノの『美学理論』に至るまでの文化=芸術理論のうちに、このような「産 業=無秩序」対「文化=秩序」という対立図式が見て取れるでしょう。芸術の自律 性とは、社会的分業が進み、機能分化が進展していくにつれて失われた人間の全体 性のイメージ、あるいは、そのような全体性の代替物を提供するものであったとい えます。カントにおいても、美的判断の自律性は、目的なき合目的性というかたち で、全体性ないし完全性のイメージを与えるものでした。そこには、経済的、政治 的等々の特定の目的に奉仕させることに対する批判と抵抗があったはずです。  しかし、産業の一部門としての芸術という事態は、芸術から、このような「全体 性のイメージ」というステイタスを奪っていくように思われます。そのような状況 の中で美的判断は他の判断(経済的、政治的等々)と、どのようにかかわるべきで しょうか。とりわけ、美的判断の自律性の「見かけ=仮象」が、政治的判断の正当 化としてのみ採用されるというような事態が起きたとするなら、それに対して、どのように対応すべきだとお考えになっているのでしょうか。

21.もしも、キュレーターの皆さんが、今日、芸術は目的なき合目的性としての美 の体現であると考えていないのだとしたら、芸術は一体、どのような目的に奉仕す るものであるとお考えなのでしょうか。あるいは、芸術を成り立たしめている経験 は、社会の中でどのように組織されているとお考えでしょうか。たとえば、FAMAの 作品は、旧ユーゴにおける戦争(内戦)の悲惨さをよく伝えています。しかし、そ の「仕上がり」の良さについて語る際に、西欧が他者をイメージとして所有し陳列 する場所である美術館という形式を作品自体が模すことで、旧ユーゴの「悲惨さ」 が、西側先進諸国にとって自分のナルシシズムを満足させるイメージとして消費の 対象となっている事態に対するアイロニカルな批評となっている点を無視してしま うとしたら、一体何事でしょうか。また、それと同様に−−あるいは反対にと言う べきでしょうか−−、沖縄の現状を美的に享受可能なものとして提示してしまうと したら、それこそ、犯罪的なのではないでしょうか。もちろん、そこには日本軍「 慰安婦」から、沖縄駐留合州国軍による性暴力、そして、旧ユーゴにおけるレイプ を通じてのジェノサイドにいたるまでの、軍隊と性暴力の近代的な結び付きという 問題が存在します。FAMAの展示が、決して、私たち日本に住む者にとって遠い、他 人事の、安心できるものではないことを示すために必要なものとは、沖縄の展示に 対しても、FAMAのようなきれいな、器用にまとまった「仕上がり」を求めることな のでしょうか。そうすることで、旧ユーゴと沖縄とをつなぐことができるとでもい うのでしょうか。この点についてもキュレーターの方々にお伺いしたいと思います 。

1997年5月19日
イトー・ターリ
大平透
田崎英明
守谷訓光 kunimiz@tky0.attnet.or.jp


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