GESO 

「パフォーマンスとは何だ」(第五列通信1)
CHRIS002(1985年7月発売)

『定義するとなるとさメンドーなのね』

 なんであれ定義するなんてのはカッタルくて厭なんですが、「パフォーマンスとは何だ」っていう限りは、定義から始めなくちゃいけないんだろうね。

 パフォーマンスってコトバは今や市民権を得た----というか流行もんになっちゃってるみたい。だけど、パフォーマーの側には、コトバによって意味づけようとする人は多くない。これは「コトバにできるくらいならこんなことやってないぜ」ってのが主な理由なんじゃないかな(単にコトバに不自由なだけって場合もあるけど)。で、定義するのが商売でもある学者や評論家のセンセイ方はパフォーマンスをどう捉えているかというと、結構マチマチなんですが、10年代にダダがどうのこうの、60年代にハプニングがどうのこうのといった、芸術分野でいう「パフォーマンス」のルーツ捜しの話をマクラにふったりとか、「身体(性)」をキーワードにしたりする点が共通パターンみたいね。センセイ方の諸説を勝手にまとめてみると、「パフォーマンスとは身体を介して新たな意味を生成・呈示していく作業過程全体である。」といったところですかねー。では、観客・聴衆といった受け手にとって、あるいは、テレビ・雑誌といったメディアにとってパフォーマンスとは何かっていうと、「よくわかんないけと意味ありげで、ひょっとしたらアートなんじゃないかと思わせる行為」だったり、「ちょっと異常だけど、面白い芸」だったリするわけね。

 こうしてみると、パフォーマンスの定義は、まだ固定していない。いないままにブームは衰え、来年あたりには「 '84年頃から盛り上がりをみせたパフォーマンスとは、○○であった。」という感じで回顧され分析されてオシマイ、ってことになるのかな……と、結論を急いでもいけないのでここで休憩。

 (お茶でも飲んでください。)

 えーと、定義、ですね。 
 英語でいうPerformanceは、もともと専門用語じゃなくって、実行とか成就とか仕事とか演技とか、多義的な目常語の一つに過ぎないわけです。辞書によれば、動詞形でPerformの原義として「長期にわたる、または努力・技術を要する仕事をする」というのと、もう一つ、「単にdoに対する形式的な語として用いられることもある」と説明されています。つまり、何かをする、という意味ではdoと同じだけどよリ限定的に用いられているんですね。それでも意味するところは依然として広いわけで。医者が手術やっても、役者が芝居演じても、音楽家がピアノ弾いても、更に、人ならぬ耕耘機がうまく作動しても、みーんなPerformanceといっていいのね。

このPerformanceってコトバが芸術畑のテクニカル・タームとしても用いられるようになったのがいつ頃からなのか、よくわかりませんけど、先程の評論家的な意味で使われ始めたのは70年代以降でしょうね。おそらく、ジャンル分けが困難な芸術形態に名前を付ける必然に迫られてのことでしょう。60年代に大量発生したハプニングだのイヴェントだのを総称するために……。もっとも、センセイによってはハブニングというコトバにパフォーマンスを包括させる人とかこの両者を別物として扱う人もいたりしてややこしいんだけど。もう、面倒くさいんで、現在は評論家たちはパフォーマンスの意昧を限定しようとし、パフォーマーたちはあまりそれに頓着せずにパフォーマンスをやり続け、野次馬たちはやや戸惑いながらもパフォーマンスを享受Lている、という、現在進行中の現象にはよくある構図になっている、と言ってしまおうっと。

 ただ、ホコテンで徒党を組んで歌い踊ることとか、大学生のコンパ芸の延長みたいなお笑い芸をも「パフォーマンス」と称し、奇人変人の類をも「パフォーマー」と称したりしている風潮にあっては、野次馬が自らパフォーマンスすることも可能であって、現にその手のパフォーマーがどんどん登場してます。こうなると、もう「パフォーマンス」を芸術的なタームとして定義するのは困難でしょうねー。『パフォーマンス・ボーイ』なんていうカタログ本も出てファッション化はとどまることを知らない。さっきの、英語の原義からも既に逸脱しちゃってるわけです。別に「長期にわた」ってなくてもいいし、特に、「努力・技術を要」しなくてもいいんだし(例・各種の「瞬間芸」)。

『今さらボイス・パイク・小春もナイヨ』

……気が付いたんですが、ここまでに登場Lた固有名詞は『パフォーマンス・ボーイ』だけですね。なんか実例出さなきゃ具体性に欠けるでしょうか? でもねー、いまさらヨーゼフ・ボイスとかナム・ジュン・パイクとかローリー・アンダースンとか坂本龍一とか如月小春とか、あるいはアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンとかをもちだしても、ウンザリするだけだしねー。原稿枚数を稼ぐにはいいけど(特に、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンなんてバンド名書くだけで19字も稼げて重宝ですこと)。どの雑誌見ても載ってるんだし。 

『大体マスコミが画一的でオモロないのネ』

 うん、「どの雑誌見ても載ってる」。この情報----パフォーマンスに限ったことじゃないが----の偏り方ってのが、次回お話する(という保証はどこにもない)「多様な価値という名の価値の画一化」の問題にも関連するんだけど、マス・ミニ問わず日本のメディアが抱える問題の一つですねー。アメリカだったら、例えば『High Performance』誌なんか見ると、ボイスやパイクばかりでなくホントにマイナーなパフォーマーも取り上げられているし(向こうのパフォーマンスも日本に勝るとも劣らず奇人変人芸化してて困ったもんだとは思うけどね)、ほかの雑誌にしても、どれもがノイバウテン(略称)を載せてるわけではない。このへんはアメリカのメディアのほうがいいみたい。

 何の話でしたっけ? 定義?……そういうわけで、センセイ方は眉をひそめるかもしれないけど、パフォーマンスというコトバは風俗がらみでブワーッと広がってるみたいです。シロートは勝手な解釈でてんでにパフォーマンスを始め、本職(?)のパフォーマーの中にも、芸術史的価値評価にこだわらずに面白がるという点ではシロートに近いノリの人たちも珍しくありません。評論家センセイの中にさえ、シロートに近いノリで自称パフォーマンスを始めてる人が出ています。世をあげてパフォーマンス時代、なのか?

 さて、こうした現状を私がどう思っているかというと、要するに「好きにすれば良い」と。これは、無関心から言っているわけでもないし、突き放して言ってるわけでもありません。定義したからどうなるというものでもないし、どうせ定義は後からついてくるんだから、「パフォーマンスとは何だ」なんて考えずに、好きなようにやれば良い、やりたくなければやらなくて良い、それだけのことでしょ。

 ……と、ミもフタもないことを言って終わつちゃってもナンだから、一言付け加えておきます。

「目立ちたい、ウケたい」だけではやらないでね、恥ずいから。


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