荒井真一のパフォーマンス
1999年から2009年まで

at GRACE EXHIBITION SPACE

2009年5月6日

荒井真一
"ビバ!侵略 ビバ!あやつり人形"

アンディ・ウォホールによる毛沢東のポートレートとアメリカ外遊の際昭和天皇がミッキー・マウスと.写っている写真を壁の上の方に貼る


頭で「1932 3 1」と描く

1932年3月1日「満州国」の建国が宣言された。
満州とモンゴル地域には3000万人が暮らしていた。
3月7日には清国12代目皇帝溥儀が満州国の皇帝となった。

1932年3月1日 満州国政府
満州国建国宣言書(要約)
満州国建国の理念は民衆が安心して暮らせることである。この国に居住する満州、モンゴル、漢、朝鮮、日本人はともかく、その他の民族であっても満州国に長く住もうと考える者は平等の待遇と権利が保障される。以前この地域は軍閥、ゲリラがのさばり暗黒政治がまかり通っていた。満州国は法律を定め、それを遵守し、経済を発展させ、教育に力を入れ、外交では信義を重視して各国と親睦を求め、満州、モンゴル、漢、朝鮮、日本人の五族がお互いに安心して暮らせ、発展する国を目指す。満州国は素晴らしい政治の元に地上の楽園となるであろう。


溥儀の写真に体の輪郭に沿って太い釘を打ち込む.
溥儀は清国のラストエンペラーであり、同時に満州国の最初で最後の皇帝だった。.




頭で「1959 5 7」と描く

毛沢東
チベット平定後の方針と政策について(抜粋)
1959年5月7日

現時点において、チベットの大衆は反乱の平定を熱烈に歓迎している。反逆者たちは食べるもの、着るものを手に入れるため、至るところで庶民の持ち物を強奪し、大衆から遊離した。そこで大衆は人民解放軍を擁護し、人民解放軍による反乱平定を擁護したのである。

ソカン、パラらは反乱を引き起こしたが、形勢を見誤り、我々のチベットに対する方針と政策も見誤った。我々の政策は知ってのとおり、6年間は改革を行わず、6年後に改革を行うかどうかは状況によって決定するというものである。6年間は改革を行わないと決めたのち、我々はチベットから3万人あまりの部隊を引き上げた。その目的はチベット人たちを団結させ、チベット人たちに進歩を促すことにあった。しかし、チベット人たちはこの形勢を利用して、西康からやってきた反乱分子を組織し、山南などの地で反乱を起こした。

彼らが反乱を起こした目的は、第一に人民解放軍を追い出すこと、我々を退散させることにある。彼らは我々の方針と政策、および人民解放軍の戦力をまったく理解していない。今回、ラサで発生した反乱を平定するのに費やした兵力は10個中隊のみ、二日二晩で反乱を鎮圧した。山南では4個連隊しか使っていない。現在、人民解放軍はチベットに2個半の師団を増強した。一個は山南、一個は昌都に駐屯し、半個は青海チベット間の交通を守っている
(毛沢東文集第8巻p53 訳:飯塚容)


荒井は1959年5月7日生まれである


中国政府のパンチェン・ラマ11世*の写真の体の輪郭に沿って太い釘を打ち込む。
*パンチェン・ラマはダライ・ラマが死亡した際、次のダライ・ラマになる少年を指名する。
そして、ダライ・ラマはパンチェン・ラマが死亡した際、次のパンチェン・ラマになる少年を指名する。
パンチェン・ラマ10世が1989年に死去し、ダライ・ラマ14世はチベットに住む少年をパンチェン・ラマ11世として指名した。
しかし中国政府はこの少年を拉致し、別の少年をパンチェン・ラマ11世とした。





壁にぶつかる


五体投地を7回繰り返す




最後にもう一度壁にぶつかる



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ARAI Shin-ichi (web master/shinichiarai@hotmail.com