荒井真一のパフォーマンス

1999年から2009年まで
at GRACE EXHIBITION SPACE

2009年5月5日

荒井真一
"ビバ!アメリカ ハーバート・ノーマンに"

ハーバート・ノーマンについて
1909年に、在日カナダ人宣教師のダニエル・ノーマンの子として長野県の軽井沢で生まれる。その後カナダのトロントに移り、トロント大学ビクトリア・カレッジに入学、この頃より社会主義への傾倒を始める。1933年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。歴史学を研究し1935年に卒業。その後ハーバード大学に入学し、エドウィン・ライシャワーのもとで日本史を研究しつつ、学友で「社会主義者」を自称した都留重人などと親交を結ぶが、のちにこのことが問題となる。

1939年に同大学を卒業し、カナダ外務省に入省、1940年には東京の公使館へ語学官として赴任。公務の傍ら、東京帝国大学の明治新聞雑誌文庫を頻繁に訪ね、近代日本史の研究を深めるとともに、羽仁五郎に師事して明治維新史を学ぶ。また、丸山真男らとも親交を深めるなど、充実した日々を送っていた。しかし1941年12月に日本とカナダ間で開戦したために日本政府によって軟禁状態に置かれ、翌年交換船で帰国する。

第二次世界大戦後、アメリカからの要請によりカナダ外務省からGHQに出向し、連合国軍占領下の日本の民主化に携わるかたわら、学者としても、安藤昌益の思想の再評価につとめ、渡辺一夫・中野好夫・桑原武夫・加藤周一らと親密に交流した。1946年8月には駐日カナダ代表部主席に就任する。その後1951年9月にはサンフランシスコ対日講和会議のカナダ代表主席随員を務め、その後カナダ外務省本省に戻る。

その後、第二次世界大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で共産主義者の疑いをかけられ、アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回にわたって受ける。そのようなアメリカからの圧力から逃れさせるべく、1953年には駐ニュージーランド高等弁務官に任命され、その後1956年には駐エジプト大使兼レバノン公使に栄転する。同年に起きたスエズ動乱勃発では、現地の平和維持と監視のための国際緊急軍導入に功績を残し高い評価を得た。しかし、都留重人を取り調べたFBI調査官によるアメリカ上院における証言によって共産主義者との疑いを再度かけられ、
1957年4月4日にカイロで飛び降り自殺を遂げた

著書
* 日本における近代国家の成立 (岩波文庫で再刊、1993年)
* クリオの顔-歴史随想集 (岩波文庫で再刊、1986年)
* 忘れられた思想家 -安藤昌益のこと-(岩波新書全2巻、ISBN 978-4-00-413141-0、ISBN 978-4-00-413142-7)
以上の著作等をまとめた選集が大窪愿二ほか編訳で、岩波書店全4巻、のち増補版が刊行。

参考文献
* 加藤周一編『ハーバート・ノーマン人と業績』 岩波書店 2002年
* 工藤美代子 『悲劇の外交官 ハーバート・ノーマンの生涯』 岩波書店 1991年
o 『スパイと言われた外交官 ハーバート・ノーマンの生涯』 ちくま文庫 2007年
* 中野利子『外交官E・H・ノーマン その栄光と屈辱の日々1909-1957』  新潮文庫 2001年
* 中薗英助『オリンポスの柱の蔭に 外交官ハーバート・ノーマンのたたかい』現代教養文庫 社会思想社 1993年
* 鳥居民 『近衛文麿「黙」して死す ― すりかえられた戦争責任』 草思社、2007年
o 前著『日米開戦の謎』草思社 1991年

(日本語版 Wikipediaより)


大学時代日本史を勉強したとき、ハーバート・ノーマンを知った。
戦後多くの日本人の歴史家が日本には戦前民主主義の伝統がなかったと論ずるなか、ノーマンは農民一揆などの例を出し
民衆の中には戦前、江戸時代以前にも民主主義は存在したと論じた。彼の考えは私たちを勇気づけた。
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荒井は写真のノーマンと妻の輪郭に太い釘を打ち込んでいく。



私たちの小学校では給食が出た(1960年代)。パンと脱脂粉乳とおかずだった。家では牛乳もパンも食べたことがなかった。あとで知ったことだが、脱脂粉乳はアメリカで期限切れになったもので、小麦粉もそうだったらしい。アメリカでは家畜のえさとして使われていた。日本政府はそれを安く買って給食にしていた。わたしは母に「パン買ってよ。牛乳飲みたいよ」と頼んだが、母は「高いからダメ」と拒んだ。

荒井はノーマンの写真に粉ミルクと小麦粉を振りかける。
そして観客に自分にそれらを振りかけるように頼む。
そしてそれらを体にすり込むようにマッサージを頼む。

そのあと逆立ちして「ビバ!アメリカ、脱脂粉乳、給食パン」と何回も叫ぶ

わたしはコカコーラが大好きだった。しかし飲めるのは年に1、2回だった。
正月やお盆に親戚が家にやってくると宴会が始まり、わたしも小遣いをもらった。
そうすると走ってコカコーラを買いに行った。
親や親戚に「何でそんな薬くさくて、高いものが好きなんだ」と笑われた。


逆立ちして「ビバ!アメリカ、コカコーラ」と何回も叫ぶ。


その頃テレビでは毎日デルモンテケチャップのCMをやっていた。
わたしたちは「デルモンテケチャップ」が何かをよく知らずにCMで歌われる歌が面白くて
登下校にみんなで「デルモーンテ、デルモーンテ、デルモーンテ、ケチャップゥ」と歌った。
ケチャップが何かわかると「カゴメトマトケチャップ」を買ってもらった。
どんな料理にもケチャップをかけた。父も母も使おうとはしなかった。

「デルモーンテ、デルモーンテ、デルモーンテ、ケチャップゥ」と歌い踊る








わたしの田舎は富山で小さい頃国道沿いの家の近くには水田とガソリンスタンドぐらいしかなかった。
しかし今はもう水田はなくなり、マクドナルド、ケンタッキー、コンビニ、広い駐車場があるファミレスばかりになった。

父は2002年に亡くなったが、晩年の好物はケンタッキーフライドチキンだった。
彼は晩酌に日本酒を飲みつつケンタッキーをかじっていた。.

母は田舎で一人暮らしだ。一人分の夕食を作るのが面倒で、
よく近くのコンビニでパンと牛乳買って、夕食にしているらしい。

「ビバ!アメリカ、ビバ!アメリカ、ビバ!アメリカ」



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荒井真一 (web master/shinichiarai@hotmail.com