小東亜共栄軒08

2008年4月26日(金)−5月5日(月・祝)
東京・名古屋・富山


大東亜共栄軒06日記

この日記は『あいだ』126号(2006年6月発行)に
"Happy 「大東亜共栄軒」!―自前パフォーマンス・フェスティヴァル制作日記  荒井真一"として掲載されました。

2005年11月20日
美学校校長・藤川公三さんから電話。2006年4月から5月にかけて行う美学校の学生募集のイベント「美学校Gigmenta」に参加しないかとのこと。美学校を使うのは自由だが経費等はいっさい出せない。イベント全体のチラシは作る。美学校OB、OG、現在の講師が多数参加予定とのこと。久しぶりに母校・美学校のうす汚れた、思い出深い教室でパフォーマンスをするのもいいかと考え承諾(1981年から87年まで吉田克朗・銅版画工房に在籍した)。

11月25日
美学校がAESSというNPO法人格を持っていることに気づき、それを利用すれば今まで呼ぼうとして呼べなかったアジアのアーティストのビザの取得ができるのではないかと思い、藤川さんに電話。ともかく書類等については全面的に協力するが、金銭的な協力は、前回話したとおりできないと釘を刺される。1人当たり飛行機代、パフォーマンスフィー等で10万円はかかるだろうが、金は何とかしようと考える。ともかく2000年以来多くのアジアのパフォーマンス・フェスティバルに参加し(飛行機代は自分持ちとはいえ、年に3〜4回)、この間一度として日本でフェスティバルをしていないことを、冗談交じりで責められていたことから、決意する。

12月11日
香港の「香港 on the move」に参加。これは年4回の予定で香港のパフォーマンス・アーティストが毎回2〜3人の海外アーティストを呼んでやっているフェスティバル。今回は同時期の香港でのWTO(世界貿易機関)の国際会議に合わせて「グローバリズム」をテーマにしており、サブタイトルは「力なき者たちの力!」。フィリピンのミデオ(Mideo M.Cruz)、香港の陳式森(チェン・シーセン)に日本でのイベントの話をすると快諾。北京の王楚禹(ワン・チューユ)とは陳を通して電話で話し、彼も快諾。

2006年1月12日
大塚のアートスペース「out-lounge」の田上真知子さんと会う。田上さんがイベントを手伝いたいと申し出てくれる。普段なら折半する観客収入を寄付すると言ってくれる。イベントのオーガナイズは15年ぶりなので、頼もしい味方出現。期日は4月28日から30日に決定。out-loungeはパフォーマンス・アーティストの田上さんが友人と数年前に大塚駅近くの雑居ビルで始めた。今は彼女一人で運営している。そのため彼女はそこに住むようになった。そして週日はアルバイトをし、週末の金土日、企画を中心にいろいろなアーティストのパフォーマンス、ビデオアート、ダンス、音楽、ワークショップを行っている。企画の場合、観客収入の半分は出演者に払っている。また、発泡酒などのドリンクはほぼ市価で提供し、公演の後は彼女の手料理が振る舞われる。彼女が30代ということもあり、若いアーティストのコミュニティという感じを受けるスペースだ。残念なのは今年末で雑居ビル自体が取り壊されることである。

1月14日
イベントのタイトルを「大東亜共栄軒」と決め、上記3人のほか、インドネシアのアラフマヤーニ(Arahmaiani)、タイのモンコー(Mongkol Plienbangchang)にメールで招待状を送る。タイトル、アーティストの人選は以下による。

「『ダイトウアキョウエイケン』と聞いて、居心地の悪い、そして政治的ニュアンスを感じる人は多いでしょう。それは『大東亜共栄圏』というスローガンの下、大日本帝国がアジアの諸国を侵略していった過去があるからではないでしょうか?

一方最近では、東アジアの諸国は文化的には華流・韓流ドラマ、ジャパニメやJ-POP、人的には10年前はまだ珍しかったアジア人労働者の増加、またアジアの国々への日本人旅行者の増加、そして飛躍的に発展するアジア諸国の経済によって、今まで以上にお互いのつきあいが多くなり、お互いを必要とし、理解し合わなければならなくなりました。

実際、私も2000年に初めて北京でパフォーマンスをした後、年に3〜4回はアジアでパフォーマンスを行うようになり、そこで多くのアーティストと出会いました。今回招へいした5人のアーティストはそういう人たちです。

パフォーマンスアートは1970年代前半から活発化した美術表現です。それまで、絵描きや彫刻家が『ハプニング』『イベント』と言ってやっていた表現が自覚的に行われるようになったとき『パフォーマンスアート』と言うようになりました。

そしてこの表現方法は1990年代アジア地域で独特な発展を遂げたように思います。
それは美学的な表現の枠を超え、社会、政治と相渉り、個人的な表現はもとより、コミュニティに根ざした表現を模索していったからです。
そのため美術の1ジャンルという隘路に迷い込むことなく、おおらかで、楽しく、しかも現代の生活に批評的でもある表現となってきました。
それは、民俗芸能(芸人)、政治的デモンストレーション、コミュニティの祝祭をも含んで止揚するような表現になっているともいえます。

もちろん、パフォーマンスアートにはいろいろな形態があり、今言ったことは『独特な発展』ではあります。また、アジアにはいろいろなパフォーマンスアーティストがいることはもちろんです。

しかし、今回招へいしたアーティストは私見では、その『独特な発展』を担ってきました。
現在アジアの国々ではいろいろな問題が起こっており、それはマスメディアの報道やインターネットの情報、旅行などではとらえきれない多様性と深さを有しています(日本も同様です)。
その状況にコミットし積極的に活動する彼らが一堂に会しお互いを披瀝することは、日本の観衆にとってスリリングな機会となるでしょう。

もとの意味でいえば『共栄』というのは違いのある者が、その違いを理解し合いながら、相補い、お互いに栄えていくということだと思います。ですから『圏Sphere』の一字を『軒Restaurant』に変えて、そこに集まった東アジアの人間(日本人もです)が、パフォーマンスを見て、語り合う『東アジアの楽しいレストラン』を作ろうと思った次第です。

付け加えれば『小東亜共栄軒』というネーミングこそがふさわしかったのかもしれませんが、インパクトを考えて『大東亜共栄軒』と名付けました
」(プレスリリースより)

1月29日
日本人作家としてイトー・ターリ、中島美々にメールで招待状を送る。

2月10日
ビザ関係の書類をやっと書き上げ、香港の陳以外の各アーティスト、藤川さんに送る(香港のパスポートはビザなしでOK)。
日本側で用意する必要な書類とは以下の4種類
1.招へい理由書
2.滞在予定表
3.身元保証書
4.招へい機関に関する書類
まず招へい機関はNPO法人AESSであり、身元保証人は藤川さんである。招へい理由書には「招へい経緯」とビザ「申請人との関係」という欄があり、ここが面倒だった。というのは藤川さんは誰とも面識がないのであるから、どうしても私との関係をかませなくてはならない。また「関係」というのも実際は希薄なわけで「友人」とするしかないのであった。その上でいかに説得力を持ったストーリーを、嘘がないように作るかが問題であった。特に中国人のビザ取得に対しては外務省は厳しいから、少しでもおかしなところがあれば、問題にしてくるだろうと思われたからだ。そこで、下記のような説明にした。

「招へい経緯」
今回の日本側参加芸術家の荒井真一は私(藤川)の古くからの友人で、今回の企画のアドバイザーの一人です。またNPO法人AESSの会員でもあります。荒井真一は2000年、王楚禹先生他の企画で北京で開催されたパフォーマンス・アートフェステイバルに参加して以来、毎年彼らのフェスティバルに参加してきました。昨年私がこの企画を発案した際、荒井が推薦したのが王楚禹先生でした。以後、先生からたくさんのカタログ、ビデオ等の資料を送っていただき、なおかつメール、電話等で意見の交換を行って参りました。その過程で先生とは実際にお会いしたことはないものの、旧知の間のようになり、先生のパフォーマンス・アートの経験を私たちの企画で紹介していただきたく招へいするに至りました。

ここまでナーバスにならなくても、と思う読者の方もいるだろう。そのあたりを少し説明する。今回は招へい元がNPO法人であるため「4.招へい機関に関する書類」を添付すれば「身元保証人」についての書類は免除された。しかし2000年に中国人アーティスト3人を呼ぼうとしたときは私個人が「身元保証人」だったため
1.住民票(全事項証明、発行後3か月以内のもの)
2.在職証明書、営業許可証等の職業を証する文書
3.市区町村長が発行した直近の課税(総所得記載あるもの)証明書、税務署発行の納税証明書(様式その2)又は税務署受理印のある確定申告書控(いずれも総所得金額が記載されているもの。源泉徴収票は不可)のうちいずれか1つ
4.ビザ申請人と招へい人との関係を示す写真・手紙等の資料
以上の4つの書類の添付が必要だった。最後の「写真・手紙等の資料」に注目してもらいたい。今回はNPO法人だから必要ないとはいえ、外務省は招へい人とビザ申請人の関係に目を光らしているとは思えないか? というわけで「招へい経緯」についてはナーバスになったわけだ。
さて前回は上記の書類を添付したが、結局ビザが出なかった。外務省はその理由については答えなかったが、「直近の課税(総所得記載あるもの)証明書」が問題だったと考えられた。つまり身元保証人としては、私の課税額が少なかったようなのだ(ある中国通の人の推測)。

2月12日
藤川さんに電話。今回の招へいに至った書類のストーリーを確認。問題があった場合、各国の日本大使館から彼に照会がいくため。同様に、アーティストにはメールで招へいの経緯を伝える。北京の王は英語ができないため、北京のシューヤンに同報メールし、香港の陳にも電話で事情を話す(陳は15年間日本に滞在していたため日本語が話せる。ただし英語はできない)。

2月13日
「大東亜共栄軒」の予告Webページ完成。

2月25日
ミデオからメール。日本大使館に行く前に国際交流基金から推薦状を書いてもらうので、荒井からも所長のSuさんに挨拶のメールを送ってくれとの依頼。メールを送る。早速Suさんからメール、2000年インドネシアのフェスティバルの際、荒井の「Happy Japan!」を見ているとのこと。ジャカルタのフェスティバルはアラフマヤーニたちが企画したものだ。Suさんはひじょうに気さくな人で、役人とは思えなかった(彼は当時ジャカルタの交流基金でアラフマヤーニのフェスティバル担当だった)。彼ならミデオを助けてくれるだろうと思い、その旨Suさんにメールする。

2月27日
ミデオからメール。交流基金の担当者(フィリピン人)が美学校とNPO法人AESSの関係を知りたいと言うがどういう関係かとの質問。書類(日本語)では「美学校」は出てこない。しかしアーティストに送ったメールには荒井の母校の「Bigakko」の校長が招へい人と書いた。「まいったなー」と思いつつ、両者の関係をメールで送る(各アーティストにも)。Suさんにも日本語で事情を説明するメールを送る。

3月5日
実家のある富山に帰る。友人と会い、彼が勤めるスーパーの駐車場で5月4日「大東亜共栄軒」をやることに決める(ただし海外アーティストのみ出演)。
母にもそのことを話す。そして5人のアーティストを家に泊めたいと頼んだ。母は昭和2年生まれで、外国には行ったことがない。また最近人をたくさん泊めたのは2002年父が死んだとき以来である。そのため、洋食を作れない、大きい布団がない、言葉が通じないと言い、拒否した。そこで食事は日本人と同じもので大丈夫だし、私たちで用意する。今回来る連中はミデオ以外は私と同じくらいの背丈だ。言葉は何とかなる。と説得した。ただ、布団を干したり大変だとこぼした。また富山で私がパフォーマンスをやらないのは、今は実家に独り住む母との約束からだ。父が死んだ翌2003年の正月、私は実家で、カナダのオーガナイザーから送られてきた2002年トロントで行った「Happy Japan!」の記録ビデオを見ていた。後ろのこたつで母は週一でボランティアに行っているデイケアセンターの老人!にあげるマスコットを作っていた。するといきなり後ろから嗚咽が聞こえてきた。「あなたは芸術をやると言ってよく外国に行くが、こういうことをやっていたのか、嗚呼」「何で裸ポンチョ(真っ裸/富山弁)になって他人様の前に出るのか、嗚呼」「大事な日の丸をお尻で描いて、嗚呼」「おまえを苦労して大学に行かせたのは、こういうことをさせるためではなかった、おまえは私たちの息子ではない、嗚呼」とまで言って泣きじゃくった。結局母が生きている間は富山でパフォーマンスをしないという約束になった。

3月29日
友人から駐車場の使用ができなくなったと電話。

3月31日
知人のつてで富山市民プラザのアトリウムでやることになる。担当が作品の内容を知りたいとのことなので、Webページのアドレスをメールで教える。

4月1日
市民プラザに電話。担当の態度が硬くなっているのが声から伝わる。「私の一存では決められない要素が出てきたので、一両日中に電話します」と言われる。使用できないのですか? と聞くとそういうことではありませんとは言う。

4月3日
市民プラザから電話が来ないので、こちらから電話。開口一番「アトリウムはすべてのお客さんが見ようとすれば、見ることのできる環境なので、中には皆さんのパフォーマンスで気分を害する人も出てくるだろうから、現状では貸せない」と言う。他の施設を紹介すると言われるが、交渉を一から始め直さないといけないので断る。では「マルチスタジオ」は空いていますかと聞くと空いていた。「では、マルチスタジオを借ります」と言うと。「そうですか、でも、皆さんの活動には向いていないと思いますが」と言うので、「それ、どういう意味ですか?」と聞き返す。結局借りることになる。ただし、裸はダメ、コカコーラはダメ、火はダメと釘を刺される(そういうことだったんです)。

4月4日
富山用のチラシの原稿を田上さんから紹介されたデザイナー集団・本田ジムにメールで送る。香港の陳に電話。王のビザが取れたとのこと! すごくうれしい。

4月5日
クアラルンプールの「サツカリ(マレー語でただの一回)」とシンガポールの「Future of Imagination」フェスティバルに出るため、シンガポールに向かう。
アラフマヤーニ、ミデオに会う。ビザが取れたとのこと。また、タイのチュンポン(Chumpon Apisuk)から、モンコーのための推薦状を書いたので、ビザは取れるだろうと言われる(チュンポンはタイの2004年AIDS国際会議の評議員を務めるなど、バンコクの中心的なアーティスト)。

4月9日
「サツカリ」3日目(最終日)。パフォーマンスの準備をしていると、ミーティングをするから集まれと言われる。何か嫌な予感。「昨夜のパフォーマンスを見た客が、イスラムの教えに背く行為があったと警察に連絡したため、警察から中止を勧告された」とのこと。詳しく聞くと、その中にはアラフマヤーニの作品も含まれていた。彼女の作品は、大皿に、観客が「一番大事なこと」を言葉で書き、最終的にそれらの皿を壁に投げつけて割り続けるというもの。アラフマヤーニ自らアラビア語で「アラー」と書いて、私にとってこの文字は「愛」を意味しています、と言って始まる。感情とか概念が言葉としてフェティッシュな価値を持つことを批評するパフォーマンスだ。
アラフマヤーニは安全のため一足先にシンガポールへ帰ることになった。私たちは所在がないままホテルの近くでビールを飲み続けた。「サツカリ」を協賛しているマレーシア国際交流基金のSiさんが「いいイベントだったのに、残念でしたね」と言ってくれる。

4月16日
シンガポールから帰る。新宿で本田ジムの人たちと会い富山用のチラシを校正。翌日富山の友人に送ってもらうことにする。

4月18日
富山の新聞社から電話で取材。高校の友人がその新聞社に勤めているため便宜を図ってくれたのだ。また富山のFM局に勤める友人からも3分程度の放送原稿をメールするように言われる。

4月23日
田上さんから「イベントの料理はどうしようか?」と電話。「簡単なスナックでいいですよ、用意するのが大変だから」と答えると、「だって大東亜共栄軒なんだから、おいしいものを出したいじゃないですか」と言われる。「コンセプトがレストランであって軽く飲み食いできればいい、と思ってるんだけど」と答えたが、結局田上さんにすべてお任せすることにする。

4月24日-26日
モンコー、ミデオ、アラフマヤーニ到着。
モンコーは1965年生まれ。バンコクではパフォーマンスが盛んで年一回「ASIATOPIA」という盛大な国際フェスティバルが開かれているが、その中心メンバー(前述のチュンポンがボス)。タイの学生運動は日本でも有名であるが、美術家も社会に積極的にコミットしている。モンコーもアメリカの国旗にブタの血をかけ、そこに自分の小便をぶっかけたり直接的にアメリカを批判するパフォーマンスをやっていた。しかし最近はとても内省的な作品になってきていて、それをまた見たく思って招待した。また、妻、兄、兄嫁そして友人と組織している「U-Kabat(タイ語で隕石)」というユニットは、コレクティブパフォーマンスを行っている(2002年光州ビエンナーレに参加)。たとえばリングを作りそこでブッシュのお面、フセインのお面をかぶったパフォーマーたちがボクシングをしている。少し離れたところでは大量の氷を敷き詰めた上で、パフォーマーがバリカンでほかのパフォーマーを丸坊主にしていく。また別のところでは...(これは2002年のASIATOPIAで私が見たもの)。これらのアクションが人でごった返す公園で繰り広げられるのだった。ヨーロッパのブラックマーケットという著名なコレクティブパフォーマンスユニットが別の日に同じ場所でやったがえらい違いであった(どちらも面白かった)。
ミデオは1973年生まれ、マニラ在住。アメリカ国旗柄のシャツを着、目出し帽に、犬が人をかまないようにする器具を口に付けて、傍らに「Mikey(Mickeyではない) Mouse」柄の安物のビニールバッグを置きただ立っているパフォーマンスを世界各地で行う。私が見たのはインドネシアのボロブドール遺跡、台北、香港の繁華街のもの。通行人は立ち止まったり、無視したり、声をあげて笑ったり、質問したりして通り過ぎていく。それをビデオで撮影し後日室内のパフォーマンスで使用する。街頭のパフォーマンスをスクリーンに映し、大音量でQueenの「We Will Rock You」のサビの部分を繰り返し流しつづける。観客が退屈しかけたところにスクリーンを破って同じ格好をしたミデオがアメリカの国旗を振りながら出てくる。そして踊りながら服を脱いでいく。全裸になり、最後は2リットルのコカコーラにコンドームを付け、激しくピストン運動を繰り返す。コカコーラの性器はどんどん膨張し最後にはコンドームが破裂する。またまるで聖母マリアのような格好だが、頭にコカコーラの看板で作ったミッキ―マウスの耳を付けて、ラジカセから聖歌を流しながら、町を練り歩く作品も見たことがある。また彼は「New World Disorder」という組織を主宰していて、各国のアーティストと共同作業している。一方マニラでは友人とアートスペースを作りさまざまアーティストの結節点にしようとしている。
アラフマヤーニは1961年生まれ(来日アーティストではただ一人女性)。前述のように2000年にジャカルタでインドネシア初の大規模な国際パフォーマンスフェスティバルを企画した。2003年ベニス・ビエンナーレのインドネシア代表。そのときのインスタレーションのタイトルは"11 June 2002" 。
http://www.universes-in-universe.de/islam/eng/2003/03/arahmaiani/index.html
参照。
インドネシア政府はこの作品の制作にお金を出さず(出せず)、結局ドイツのギャラリーが彼女がその作品で展覧会をすることを条件にお金を出したらしい。この作品について以前わたしが書いた文章
「それはあの9/11以降の話。彼女がカナダでの展覧会に行くため、USAの空港に1日トランジットする際に起きた。空港で彼女はイスラム圏から来たというだけでパスポートを取り上げられ、トランジットで利用するホテルの部屋に警官を張り付けられた(監視された)。
展覧会の公式インビテーションカードを見せても、それはカナダでのことと拒否された。その上監視する警官は男だったのだ。女性の警官にしろと抗議しても受け入れられなかった。
彼女はその警官とホテルの一室で丸一日を過ごした。
そんなことがあるのか? と思った。
彼女はその警官に記念写真を撮ることを提案し、警官はその申し出に乗ったのだ。そこで彼女は何枚もの写真を撮った。手錠や警察手帳をうれしそうに見せる警官、別れ際に握手を求める警官。
アラフマヤーニはその後、それら現場の写真、後から警官の視線で撮った彼女がシャワーを浴びている写真を使ったホテルの一室のインスタレーションをベニス・ビエンナーレで発表した。そのカタログを見せてもらったが、彼女の危機感がサスペンスのように伝わってきた。
また、その作品からはジェンダーの問題、人種差別の問題、第三者から彼女に刻印された宗教の問題(彼女は、イスラム教徒だが、ベールもかぶっていないし、ビールもがぶがぶ飲むし、若いときに離婚もしている)が立ち上がってきていた」
最近のアラフマヤーニは海外にいることが多い。今はベルリンの大学でパフォーマンスを教えている。ジョグジャカルタの彼女の家は広く、そこには何組かの若者が居候している。時には彼女は彼らとその友だちを組織して、大掛かりなコレクティブパフォーマンスを企画している。

4月27日
陳、王到着。
陳式森は1963年生まれ。1987年9月に日本に留学。すぐに日本で美術を勉強してもしようがないと気づく。しかし1989年6月4日の天安門事件が起こり、東京で中国民主化運動に参加。そのため帰国できなくなってしまう(帰国すれば逮捕)。日本でも数々のパフォーマンスを繰り広げたが、特に天安門事件(虐殺)をテーマにした作品を発表しつづけた。毎年6月4日には六本木の中国大使館前でパフォーマンスを行い、日本の警察に連行されたこともあった。
また2001年8月小泉靖国参拝後の敗戦記念日(15日)には、人波でごったがえす中(多くは戦没者の関係者または右翼)で、パフォーマンスを行い負傷一歩手前で警察に排除されるということもあった。ただ彼の作品はとてもエレガントなもので、たとえば「(2003年)3月16日(さよなら陳式森・パフォーマンスの会『橋』 で)の彼のパフォーマンスは今までの作品とは少々趣の異なるものだった。この日、陳式森が私達に紹介してくれたのは「山海経」。陳はマイクスタンドのホルダーに赤色の円筒形の物をセットしてから自分の場所に立った。壁面の鏡に3枚の白い大きな紙を水で濡らして貼っていく。左右の紙の上方に円を鋏で切って重ねる。水墨画に描かれた月と太陽のようだ。彼はライターを取り出し満月に向かって炎で文字を書いた。その後ろ姿から彼が何か言葉を呟いていたのではないかと感じた。彼が選んだ14年目の春の選択(離日)の意がそこに熱写されていることは確かだ。ステージから会場入り口までの十数メートルの通路に感熱紙のロールを中腰になって転がしながら彼は新しい道をつくる。暗闇の中ライターの着火部を感熱紙に押し当てて小さな火花を散らしながらステージに戻ってきた。そしてマイクスタンドにセットしてあった発煙筒を発火させて今きた道を今度は一気に屈んで走って往復した。炎で描かれた水墨画」と主催者の武井よしみちは書いている。
2002年3月、中国の状況が多少開放的になった状況を見て、奥さん、息子と中国・広州に帰った。現在は広州から香港に移り、若い作家たちと積極的に活動している。前述のイベント「香港作動--香港 on the Move」シリーズの、2005年4月「身体性」、6月「天安門」、9月「ジェンダー」、12月「反グローバリズム/反WTO」、2006年6月「天安門」というテーマはアクチュアルであり、厳しい経済状況の中で近隣諸国のアーティストも招へいする画期的なもの(ワンチューユ、ミデオ、イトー・ターリ、アラフマヤーニ、荒井参加)。香港は制度が少しずつ本土の基準になりつつあり、日本の「共謀罪」のような法律に対して昨年10万人規模の反対デモが行われた。しかし、本土が変わらない限り、いくいくは本土の制度が適用されるとの危機感が陳たちの活動をアクティブにしている。
王楚禹は1974年生まれ。パフォーマンスが盛んな北京において、彼の作品は知的に社会を批評するが、同時に身体性を際立たせる独特な存在だ。彼の作品では「中国憲法」がよく取り上げられる。中国の憲法は労働者と農民の表現(デモ)の自由、結社の自由等を認めている。しかし、その解釈は労働者と農民を代表する中国共産党にゆだねられている。そのねじれを彼は際立たせる。中国のどこの書店でも「憲法(抜粋)」の小冊子は安価に売られている(しかし誰も買わない)。彼はそれを大量に買い込み、一人で矩形に穴を掘り、そこにそれらをきれいに並べ、その上にコンクリートをしく(一日かけて)。これら憲法を土台にしたコンクリートの帯は、道となっていくのか、それともただの墓標になるのかと、彼は問う。彼とは2000年中国で初めて開かれた国際パフォーマンスアートフェスティバル「Open Art Festival」(以後毎年開催)で会った(彼はオルガナイザーの一人)。彼は初来日。ほかのアーティストはNIPAF等で来日済み。
同日
神田・葡萄舎で田上、イトー・ターリ、中島美々らと歓迎会。
男性陣は荒井宅、アラフマヤーニは田上宅(out-lounge)に止宿。
友人たちにお願いしていたカンパが11万円になる。

4月28日
会場に向かう前に、まず浅草・仲見世でミデオの作品のためのビデオ撮影。ビデオカメラをごった返す通行人から守っていると、近くの土産屋のおばさんが笑って「何やっているの?」「自主映画みたいなことです。邪魔っすか?」「別にいいわよ」。途中であるおじさんが「そんなことしているとしかられるぞ。寺の事務所に電話したぞ」と言う。「どうすればいいのですか?」「今すぐ事務所に行きな」と言うので、浅草寺の事務所に行く。「その件で電話受けてますよ。で、何やってんの? あ、っそう。各国でね。それを集めて、発表するわけですね」と物分りが抜群にいい。「ともかく見てみないとね。電話もあったし」。15分ぐらいで事務所の人と現場に行くとパフォーマンスは終わっていた。別の電話で警官が来て、やめさせられたらしい。ミデオは25分は撮れたからオッケーと言っている。その後靖国神社に移り、王の明日の作品のためのパフォーマンスをビデオ撮影。浅草寺のこともあり、うまくいくかどうか不安になる。一緒にいるのはミデオ、モンコー、王、それに陳の友だちで日本語がしゃべれる中国人の占さんと私の5人。場所は靖国神社の道を隔てた観光バス駐車場や茶屋のあたりの参道にする。遠からず、近からずという場所。王の作品は参道の敷石に「長崎 南京 広島」という3文字を指でなぞり続ける。そうすると指から次第に血が吹き出てきて、赤い文字となっていくというもの。最初は遠くから撮り、文字が見え出したら、近づいてきてほしいという注文。日頃ビデオを撮ったことがないので、ミデオに応援を頼む。靖国ということでビビっていたのか(周囲を常に気にしていた)、慣れないことだったからか、映像が時々ぶれる。結局無事にパフォーマンスは終わる。しかし、すぐさま警備員が来てわたしたちには何も言わず、水でその文字を洗い流していった。王の出血がひどい。コンビニも薬屋も見つからず飯田橋近くまで歩く。途中田上さんから電話。陳が来ないとのこと。別行動であることと、リハが必要のない人だから、心配しないようにと伝える。
東京初日。イトー・ターリは韓国の従軍慰安婦の人たちが自分たちの戦争中の経験を描いた絵(スライド)の前でパフォーマンス。陳は三峡ダムのために水没させられた、杜甫などの詩人・文人が愛した街・奉節についてのパフォーマンス。大きな力によって歴史から排除された記憶という点でシンクロした両作品だった。パフォーマンス後田上さんの作った大量の料理が出る。みんなおなかがすいていたのでがんがん食べる。がんがん飲む。がんがん話す。特に陳の来日に多くのアーティストが集まり、陳の笑い声が会場に響きわたっていた。

4月29日
東京2日目、旧天皇誕生日。開演30分前なのに誰も来ない。休みということで昼の2時スタートというのがまずかったか? 田上さんが「昨夜、荒井さんは酔って、2時だけど、いろいろあるから3時くらいになるかも、って言っていたよ」と言う。まずい。そういうことかどうか、2時前からやっと観客が集まり出す。30分押してスタート。
王の作品は、昨日靖国神社で行ったパフォーマンスを映写。その映像の前でレンガに昨日傷ついた指を使って同じ行為を行った。中島美々とRINZO(田中洋平)は電気ドリルを2台連結させた回転装置を不安定な土台に設置し、その前で合成洗剤を口に流し込み、泡を立たせる作品。モンコーの作品はタイの各地でそれぞれの方言で歌われる子守歌を流し、その前で機関銃のポスターを切り抜き、その後けたたましく鳴り出すヤカンから、ドクダミ茶を観客に振る舞う作品。昨日と同様、田上さんの美味なる料理、そして昨夜イトーがパフォーマンスで使った大量のたまねぎの一部が料理となって出る。RINZOは合成洗剤が目に入り、洗面所で目の洗浄。そのため、中島にどうしてああいう危険なことをするのかという質問が集中する。ある観客は危険なことをあえてすることを指し「特攻隊、自爆テロの心性」と発言する。結局中島はRINZOを連れて病院へ向かう。その後も議論は続き「主催者は彼らを制止すべきだった」という意見も出る。批判的な発言者の多くがアーティストであったのが印象的だった。主催者としてはアーティストが彼らの判断と経験から決めたことだと考える。「制止すべきだった」と言った人はパフォーマンス中「やめてください」「やめなよ」と何回も言っていた。私のパフォーマンス「Happy Japan!」では小林よしのり「戦争論」のページを口の中に突っ込んでいき窒息間際でやめる。6年近くそのパフォーマンスをやってきたが2回だけ途中で観客が飛び込んできて、私を制止し、口の中に詰まった紙を取り出されたことがある。何しろ窒息間際で何が起こったか自分ではわからなかったが、気づいたときにはその観客と抱き合っていた。これは2回とも外国での話だ。ただRINZOと中島のパフォーマンスで不安定な土台の上のドリルが観客に崩れかかる場面があり、観客への危険にかんしては事前に彼らのアイデアを把握しておくべきだったと反省。また「荒井さんみたいに、きりきりしないオーガナイザーになってみたいもんだわ。本当にすごいよね」と関西から来てくれたパフォーマーに皮肉を言われる(仕切りは、舞台監督、料理も含めて田上さんがやっているため)。この日、神田・葡萄舎の客で1万円カンパしてくれたMoさんが来ていたが「もう初めてのことで、ドキドキのしどうしで、でもなんかすごくよかった」と言って帰っていった。

4月30日
東京3日目。ミデオの作品は前日のビデオを映写。その後スクリーンの後ろから彼が現れてのパフォーマンス。荒井は1.5m X2.0mのキャンバス上でうんこ座りをし、君が代を歌いながら、赤い絵の具をひりだし、その上でお尻を使って回転し、いびつな日の丸を作る(性器はピカチューの人形で隠している)。それを壁に貼り、インターナショナルを歌いながら、今度は頭で赤い絵の具をその日の丸に塗り込んで赤旗にする作品(毛沢東のTシャツを着ている)。竹田賢一が大正琴で君が代とインターの即興演奏を行う。アラフマヤーニの作品はクアラルンプールでやったものと同じ作品。浅草でミデオのパフォーマンスが警察によって制止させられたことについて、意見が続出。変な格好をしていることが問題なのはおかしい。いやそうではなく、立ち止まっていたことが問題だったのだ。たとえば新宿区は西口のダンボール村以後、各所に「ここに立ち止まらないでください」のような張り紙をしているという意見が出る。その間、陳と王はえび入り餃子を皮から作っている。途中から葡萄舎のマスター賢ちゃんも参加して300個の餃子が振舞われた。一昨日は時間がなく、昨日はRINZOと中島のパフォーマンスについて議論が白熱して、各アーティストのそれぞれの国での活動の紹介ができなかったので、まとめて行う。通訳がうまくできず、荒井、田上さんがしどろもどろになり、竹田さんや観客に助けてもらう。

5月2日
富山へ移動。越後湯沢でほくほく線に乗り換える。田んぼには雪が残り、大雪のため古い納屋で大破しているものもあった。桜の花が満開でみんな興奮する。富山着。富山は東京より2〜3度くらい寒いと言ってあったのだが、天気が悪いせいか、とても寒い。みんな暖かいところから来ているので震えている。刺身、日本酒で宴会。母も喜んでいる。やはり布団を干すのには難儀したようだ。みんなが母に歌をねだる。母は詩吟を習っているので詩吟を歌う(わたしは詩吟の国粋的なところが嫌いなのだが)。歌の意味を訳してほしいと言われ「富山からは2つの大きな山が見える。東の立山、西の白山。2つの山は出会うことはないが、毎日対話している」と意訳する。次に「米は大事だ。生きていくのになくてはならない。藁だってぞうりになる」というような民謡を歌う。みんなに大うけする。特にアラフマヤーニはパフォーマンスを一緒にしたいと申し出る。断るかと思いきや、母は承諾した。母にとってアラフマヤーニは「山羊(ヤーギ)」さん、モンコーは「紋甲(烏賊)」さん、ミデオは「ビデオ」さん、陳(チェン)は「千」さん、王(ワン・チューユ)は「ワンツー」さんということになった。

5月3日
会場下見と最終的な打ち合わせ。ミデオの作品で裸になるのはダメ、コカコーラを噴射させるのは養生しても壁等に飛び散るからダメ。アラフマヤーニの作品は床に皿を落とす案に変えたが、破片が飛び散るので養生してもダメ。陳の作品でお香を焚くのも火を使うからダメ。と、取り付く島もない。結局、床を完全に養生し、2リットルペットボトルのコカコーラの中身を普通の炭酸にし、アラフマヤーニの作品は皿をリンゴの木箱に落として割ることにする。またミデオの作品は裸になったところで暗転することにして同意を得る。アーティストには事情を事前に話してあったのだが、担当者の一方的な雰囲気は伝わったようだ。out-loungeとの落差は大きい。ミデオは特に頭にきたらしく「なんで、こんなに制約が多いのだ。ここではパフォーマンスをやるなということか!」と遠慮気味に言う。「しかたがないんだ」と答えるしかなかった。その後パフォーマンスの材料を調達するため100円ショップに行く。離日が近づいているためかお土産も大量に買っている。モンコーが招き猫を買おうとして裏を見たら「Made in Thailand」だったから、やめたと言う。東京で何回も立ち食いそばを食べていたからか、モンコーとミデオはそばの乾麺をたくさん買っていた。

5月4日
1919年中国「五四」抗日運動。母は朝になって、近所の人に見られたら嫌だとごね始める(1週間前新聞で紹介されていたため)。山羊さんに迷惑がかかると説得する。パフォーマンスは東京の作品と途中まで同じで、母が詩吟を歌っている前にアラフマヤーニが立ち、その間にあるりんごの木箱に皿を投げ入れ割っていくというもの。イベント中、管理者が誰も来ないのが不思議だった。パフォーマンス後精算のため管理事務所に行くと、事務所の大モニターには私たちの会場が映し出されていた。基本使用料は2万円弱で最初安いと思っていたが、照明、プロジェクター、マイクなどを使うと別料金が発生し、都合5万円弱になってしまった。今回使ったお金はほかに各アーティストの飛行機代、パフォーマンスフィーで50万円弱。富山への移動、食事代等で20万円くらいになった。パフォーマンスの後中華料理屋で打ち上げ。陳がラーメンを母のためにオーダーし「お母さん、お誕生日おめでとうございます。中国では誕生日に麺を食べて、麺のように長生きしようと祈るんですよ。どうぞ食べてください」と言う。そして「お母さんが食べた後、みんなも少しずつもらって、みんな長生きしましょう」ということで、みんなも食べる。母はとても喜んでいた。

5月6日
陳が仕事のため一足先に香港へ帰る。
神田・葡萄舎でさよなら会。RINZOも来る。やっと仕事に行けるようになったとのこと。みんなで祝杯。12時を過ぎた時アラフマヤーニが「アライ、Happy birthday, Happy Arai!」と47歳の誕生日を祝ってくれる。

5月7日
アラフマヤーニを青戸まで見送る。ミデオ、王、モンコーと錦糸町の100円ショップに行く。帰りにスーパーで買い物。それぞれの国の料理を作って食べる。

5月8日
早朝、ミデオとモンコーを青戸まで見送る。仕事が入らなかったので、王と自転車で浅草、上野(月曜で美術館は閉館)、秋葉原を散策。王はしきりに両国に帰りたがる。どうも錦糸町の100円ショップに行きたいようだ。しかし、秋葉原のアニメショップの前でここに入ると急に言う。けっこうロリータ趣味のマニアショップなので驚く。熱心にチラシを集めている。少し危なそうなものを渡すとこれは違うと手を振る。どうも姉の娘へのプレゼントらしい。結局ガチャポンで300円の少女フィギュアを2つ買う。また免税店で日本人形を買った。ここの店員はアフリカ系の女性で英語と日本語をしゃべるのだが、王と彼女の会話を見ていると面白かった(わたしも通訳できないわけだし)。

5月9日
仕事が入ったため、占さんに王の見送りを頼む。仕事から帰り、一人缶チューハイを飲む。

5月27日
アラフマヤーニから返信メール。自分は陳たちが企画している香港のフェスティバル(今回は「六四」天安門事件がテーマ)に行く途中でバンコクに滞在中のため地震は大丈夫だった。しかしジョグジャカルタの居候している若者たちと連絡が取れないので心配しているとのこと。

6月4日
香港の陳に電話し、アラフマヤーニに2万円カンパしたいので、立て替えてくれるよう頼む。彼らのフェスティバルは大成功だったとのこと。


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