小東亜共栄軒08
2008年5月2日(金)
名古屋


Chaw Ei Thein (チョーイティン/ビルマ)

"闘いのあるところ、希望あり"

©JIGUAI



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Chaw Ei Thein (チョーイティン/ビルマ)
"闘いのあるところ、希望あり"


1969年生。2001年には友人Htein Linと自分たちの作品を超低価格で売る行商パフォーマンスを行い逮捕された。超低価格の場合アウン・サン・スー・チーさんの父親アウン・サン将軍の肖像の入った旧紙幣を使うことになるため(低額紙幣は超インフレのビルマでは現在実質上流通していない)、政治活動とされた。2カ月の拘留の後、別の大規模な反政府活動捜査のために、解放される。02年NIPAF参加。07年「OPEN Art Festival」参加。07年に入ってからは、国内事情が悪化しているため帰国できない状態にある。


チョーイティンの友人Htein Linを紹介する「ニューヨーク・タイムズ」2007年8月13日号

Hazel Thompson for The New York Times
Chaw Ei Thein(右) と Htein Lin。2007年 Htein Linのロンドンでのミャンマーの監獄で描いた絵の展覧会で。
背後の絵は監獄の厳しい労働の後、指を切断した囚人を描いたもの

ニューヨークタイムズ (07年8月13日号)
(ほぼ機械訳なので、上記のリンクより原文を参照ください)

Jane Perlez

(2007年8月12日、ロンドン)出獄したときのHtein Linの写真を見ると、青白く、猫背で20歳はふけて見える。顔はやせ、細い手には6年以上の独房での生活用品を入れたうすでのビニール袋を握っている。彼の隣には監獄を警備する軍人が立っている。彼はうれしそうに笑っている。その笑顔の背後には有刺鉄線に囲まれた監獄である。

Htein Linは反体制運動をした政治犯として逮捕された。そして監獄で描いた300の絵画と1000のドローイングをひそかに持ち出した。世界で最も独裁的で閉ざされた国といわれる元ビルマ、ミャンマーの監獄の実態を、彼の作品は描き出している。そして、その3年後、ここロンドンで展示されている。

最も悲惨な作品は「6本の指」で、やせ細り、手や足の指をなくした囚人たちの列を描いている。彼らは貧しくて50-100ドルの賄賂を役人に渡せなかったばかりに、マラリア蚊が飛び交う湿地のある採石場の強制収容所に連行された男たちだ。

「この男たちがここから脱出する唯一方法は、事故ることだ」と今はロンドンに住む41歳のHtein Linは言う。日常的に監獄の庭園用の鋤や鍬でほかの囚人に、手や足の指の2-3本を切断してもらい、それを医師に見せるのだ。

ほかの作品は囚人に制服として支給される白いサルーン(布)に描かれている。それらは身の毛もよだつ飢えと病のさまを描いている。それらはロンドン中心の文化センター「アジア・ハウス」で展示されている。

ここで展示されている彼の作品は1880年から第2次世界大戦以後も続いた長い英国の植民地政策を照らし出している。彼はジョージ・オーウェルについて特に語らないが、彼の作品にはオーウェルの遺産が横たわっている。ジョージ・オーウェルは英国植民地ビルマの警察官であり、彼はそのときの経験を独裁(密告)社会の腐敗として、小説で表現した。

Htein Linにとって、政治的な演説を行ったとして死刑囚だった7カ月間は結果的にたくさんの重要な作品を作る契機となった。
「絵を描くにはチャンスだった。官吏はまったくやって来なかった。彼らはとても怖かったんだ」そして絵のことを知らない、向こう見ずな死刑囚の仲間たちが助けてくれた。「何かやらなくちゃ」と、彼らは「死ぬ前に、俺らはこの絵描きを助けてやろう」と思ったんだろう。それで、彼らは彼らのサルーンをHtein Linのキャンバスとして差し出したのだ。

それで多くの囚人は真っ裸で過ごしていた。何しろサルーンは半年に1回しか支給されないのだ。「彼らは裸のままだったが、罰せられることはなかった」とHtein Linは語る。結局官吏は新しいサルーンを準備し、それは秘密の絵描きのキャンバスになっていたわけである。

Htein Linは反体制グループの努力によって、彼が獄中で絵を描いていたことがばれずに脱獄した。しかし、1998年彼が友人に協力者を募るよう手紙を出したのを、検閲された。警察はヤンゴンの自宅で彼に目隠しをされ逮捕。軍事法廷で懲役7年以下の懲役となる。2004年に恩赦で少し早めに出獄する。

彼はずっとアウン・サン・スー・チー女史を支持してきた。彼女は民主化指導者であり1988年以来国外に出られず、その17年間のうち11年間は軟禁状態である。アメリカ合衆国は彼女の軟禁解除のために厳しい経済制裁を行っている。
「私が逮捕された一番の理由は、警官に君たちが国を愛するようにアウン・サン・スー・チーも国を愛しているんだよと言ったことなんだ」と彼は言う。

監獄に入った、彼は画材等を見つけ、官吏たちと仲良くなり、彼の作品を外の友達に運び出すのを手伝わせるように必死になった。
彼は先ず医務局の人と仲良くなった。その人は詩人で喜んで注射器をくれた。それは筆の代わりになった。
面会の家族からもらうお金で仲良くなった官吏を買収して、油絵の具、アクリル、ときには家庭用塗料を手に入れた。

彼の独創的なテクニックの一つは、彼が独房に持ち込むことを許された、白の仏像プラスティック製の写真の裏を使用することだ。裏が白くコートされた表面の上に絵を描き、その上にイメージを写し出すための布を置いた。

時々、危ない目にもあった。それは囚人が告げ口をして、官吏が彼の独房に彼の作品を探しに来る時だった。彼はサルーン(布)に描いた絵を乾かしていたのだ。官吏がその布の隅を持ち上げ後ろをのぞきこみ、それを元に戻すのを見守った。しかし、実は、そのぬれた布が、官吏が探しているものだとは、全く気がつかなかった。彼らはそこにぬれた布を見いだすだけだった。

仲間の作家チョーイティン(38歳)がヤンゴンから彼の展覧会に訪れている。彼女はタイで個展をし、日本と台湾でパフォーマンスをやってきたあとだ。

彼らは90年代ヤンゴンの法律学校で出会った。そして2人とも法律家になるのをやめ、もっと軍司政権下の表現の制限を突き破ることができるパフォーマンスアートをやり始めた。

彼らは、ヤンゴンの市場や街角でリボンや飴といった小銭で扱う商品を売るパフォーマンスを行った。これはもちろん、現政権下で日常化する超インフレーションを批評していたのであった。

意外にも彼らは彼らは逮捕された。しかし、もっと深刻な首都での爆弾事件が起こり、その警察署はてんやわんやになってしまった。実際警官はチョーエイに一度に2つの事件に対処することができないと、愚痴ったそうだ。そこで、警官はHtein Linとチョーエイに釈放だと言った。

2人のアーティストに爆弾犯捜査の様子を描いてもらうべくもなく、ビルマでの生活にはジョージ・オーウェルが描いた荒唐無稽でそこで生きる人々には悲惨な独裁(密告)社会の特徴がにじみ出ていると記者(Jane Perlez)は考える。


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